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異能性世界

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「ええ、結構多いですよ。毎日、同じ場所で同じように会う人がいるんですが、その人はいつも私のことを覚えていないんです。最初は夢を見ているのかと思いましたよ。でも、お話をしてみると、前の日に話した内容とまったく同じ話をするんです」
「えっ、それって毎日同じ話を繰り返しているということですか?」
「ええ、そうですね。まったく同じ話で同じところで感動したり、パターンが分かっているだけに、途中からウンザリしてきたんですけども」
「確かにそうでしょうね。でも、それでも道を変えたりしないんですか?」
「それはしません。パターンを変えることが怖いんです。毎日同じことを繰り返している私にとって、パターンを変えることは死活問題に関わることだって思うんですよ」
 よく話が呑み込めない。あれだけ会ってみたい。話をしてみたいと思っていたのに、今では、再会したことを後悔している。
――明日は帰る道を変えよう――
 と、思うのだった。
 翌日、何事もなく一日を終えて、いつもと違う道を帰った。少し遠回りにはなるのだが、リナと出会ってしまって、また同じ話になるとかなわない。それを思うと少々の遠回りくらいは問題ではなかった。
 一つ隣の筋を通っていると、見覚えのある佇まいが見えた。昨日寄った骨董品屋が見えてきたのだ。
 骨董品屋は、いつもの道と今日の道とで、筋違いであっても、見かけることができるのだ。裏にも入り口があるからなのだが、不思議なことに、裏の佇まいも、表とほとんど変わらない。少しこじんまりとした感じで、やはり裏口だった。それでも暖簾は掛かっていて、まるで、質屋ではないかと思うほどだった。
 その日は裏口から入ってみた。裏口から見ると、表から入った時よりも、店内は少し広く感じられた。それだけ裏口が狭いからなのだろうが、昨日来た時と佇まいが少し変わっているように感じられた。
 昨日、購入した大時計はすでになく、配達してくれると言っていたので、配達準備をしているのだろう。
 見覚えのある店主は、本を読むのに夢中で、修に気付かない。店主もかなりの年齢なのだろう。少々のことでは気配に気付くこともなさそうだ。
 本を読んでいるのを幸いに、少し店内を見渡した。昨日の客がまた来ていると思うと、声を掛けられるかも知れない。集中して見てみたいと思っている時に、声を掛けられるのはごめんだったからだ。
 昨日の城の絵がなくなっていた。誰かに売却されたのだろうか? 他にも絵があったので見てみると、修の目を引いたのは、高原の絵であった。
 絵のほとんどが真っ青な空だった。そう感じたのは、乱雑に置かれている絵が、逆さまになっていたからだ。九割近くが空に見える。思わず手にとって、ひっくり返してみた。最初に感じた九割の空が、今度は七割くらいに感じられる。確かに上下逆さまなら空が広がって見えることは知っていた。それが絶景であれば余計に感じられることであり、学生の頃に旅行で出かけた丹後の天橋立を思い出した。股の間から頭を出して逆さまに見る。それが見方だと言われて見てみたが、なるほど、上下逆さまならまったく違って見えるのだった。
 後で調べると「サッチャー錯視」と言われているようだが、これは人の顔にだけ言われることなのか、逆さ絵の錯覚はよく心理学の世界では研究されているようだ。
 空に向かって、手をかざして見ると、今にも手が届きそうに感じるのを思い出していた。空に対しての思い入れは人それぞれ、しかし、誰でも一度は、空に手をかざしてみたことがあるのではないかと思う修だった。だが、誰もそれ以上考えようとしない。果てしない発想が答えを見つけ切ることができないことを、最初から分かっているからではないだろうか。
 元に戻した絵は、最初に感じた高原に、すすきの穂が無数に生えていた。よく見ると、すすきの穂が風に靡いているように見える。錯覚には違いないが、まず感じた絵に対してのイメージは、
「これはいつの時代のものだろう?」
 というものだった。
 今の時代だとも言えるし、大昔であっても不自然ではない。遥か遠くから、馬に乗った男が表れて、鎧武者であるとしても、違和感はない。この絵で感じるのは、どの時代であっても通用する漠然としてはいるが、果てしなく広がる空のイメージだ。手を伸ばしても決して届くはずのない空なのに、思わず手を伸ばしたくなる心理が働いているように思えてくる。
 絵を見ながらしばらく佇んでいると、時間があっという間に過ぎていたようだ。気が付くと、三十分近くも過ぎていて、裏口から抜けると、家路を急いだ。
 途中、コンビニに寄って、パンやお菓子を購入する。すぐに小腹が空いてくるので、いつも何かを買い求めている。
 部屋に一人でいると、時々襲ってくる寂しさが、小腹を刺激するのだが、寂しさだけはどうすることもできない。テレビを付けていても解消できるものではなく、もし解消できるとすれば、年を重ねることだけかも知れない。
 テレビはついているだけで、あまり見ているという記憶はない。実際に見たい番組があるわけでもなく、バラエティのような番組を何も考えずに見ているだけの時こそ、無為に時間を過ごしているだけだったのだ。
 無為に過ごすことへの抵抗はない。寂しさが抵抗を覆い隠すからだ。そういう意味では寂しさを凌ぐ辛さはない。何をしても楽しくない時ほど、
「もう一度、同じ日をやり直せたらいいのに」
 と感じる時だった。
 最近は、同じ日をやり直したいという気分にはならない。かといって、寂しさが解消されたわけでもない。寂しさは相変わらずなのだが、怖い気持ちが最近はマヒしてきたつもちだったのに、同じ日を繰り返すことに関してだけは、逆に怖さを感じるようになっていた。同じ日を繰り返すことの恐怖が、他の恐怖への感覚を鈍らせているのかも知れない。
 同じ日を繰り返すことが恐怖だと思いながら、寂しさには勝てないジレンマを、修は感じていた。そんな時に出会ったリナという女性、彼女は同じ日を繰り返していると言ったが、出会ったのは本当に偶然なのだろうか。
 同じようなことを考えている人に出会って、
「こんな偶然もあるんだ」
 と思うこともあったが、出会った人の話を聞いて、あまりにも印象深いことが、実は自分も以前から感じていたことのような錯覚に陥らせてしまうこともあるかも知れないと感じた。実際に以前に感じたことをしばらくは、偶然だと思っていたが、ある時期を過ぎると考え方が。錯覚だと感じるようになってきた。たぶん、深かった印象が色褪せてきて、頭の中で冷めてしまったからではないかと思うようになっていた。
 同じ日をやり直すのと、繰り返すのでは、まったくニュアンスが変わっている。
 やり直すというのは、前向きな考えで、後悔の残った一日をやり直すことで、本来の自分を取り戻したいという気持ちの表れなのだが。繰り返しているのは、後悔もしていないのに、もう一度一日前に戻るというだけで、今度は後悔のない生活が送れるという保証はどこにもない。
 そもそも同じ日を繰り返すというのは、どういう感覚なのだろう。同じ日を繰り返していると分かるのだから、まわりは、まったく昨日(いや、今日)と同じでないと、発想が成り立たない。
作品名:異能性世界 作家名:森本晃次