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異能性世界

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 次元には、それぞれにバランスがある。自分たちの暮らしている三次元でもバランスを必要とする。時間という概念が次元という概念に結びつかないが、それでも時間を意識している。想像する四次元は、時間を次元に取り込んだものだ。
 ということは、二次元の世界から三次元を見た時、意識としては高さという概念は存在しているのだが、それが次元と結びつかないことで、次元を飛び越えることができない。そう思うと、二次元で身体を動かすことも可能ではないかと思うのだ。
 それが一種のパラレルワールド、つまり次元と次元の狭間には無数のパラレルワールドが存在しているという考え方である。パラレルワールドを一つの次元だけで考えていると、いつまで経っても、パラレルワールドの存在を意識することができても、理屈を理解することは永遠にできないのではないだろうか。
 初めて、パラレルワールドを意識した時、その時を思い出すのは難しかった。パラレルワールドを意識した時から、自分の考えが無数に広がった気がしたからだ。頭は一つしかないのだから、今考えている自分が本当の自分であることに違いはない。ただ、その時に自分の前にいた女性は一体誰だったのだろう?
 まりえでないことは確かだと思っていた。まりえは、パラレルワールドを意識することで出会ったリナに促されて意識した相手だった。目の前にいたとしても、それは意識していない彼女であって、修が意識することで、まりえも修を意識し始めたのだ。
 いや、お互いに同じ疑念を抱いていて、お互いに探していた相手に出会えたのだ。少なくともまりえはこの出会いをただの偶然だとは思っていないだろう。もちろん修もただの偶然などとは思っていない。まりえとの出会いは約束されていたものだと思っている。
 相手がまりえでなければできない話もいっぱいある。話した内容は氷山の一角だ。時間が経つにつれ、話したい内容はどんどん増えていく。それだけお互いにパラレルワールドを意識しているということだろう。会っていない時は意識していないが、会って話を始めると、話が止まらなくなるに違いない。
 奈々子に対しては、今までお兄さんという存在が邪魔していたという意識があった。死んでしまったことは気の毒だが、奈々子にとっても修にとっても、これから先のことを考えるとありがたいことであった。奈々子はすぐにその気持ちを認めようなどできなかったが、兄の遺書のような日記を見てから、すぐに気持ちが入れ替わったようだ。修に日記を見せたのも、気持ちの入れ替えをしたかったからなのかも知れない。奈々子との間にも偶然というものはない、必ず何かしらの必然性が存在しているのだ。
 リナとの出会いも、もちろん偶然などではない。ただ、主導権は完全にリナに握られている。修がリナと会いたいと思ったとしても、それはリナが操作しているのではないかと思えるほど、主導権は完全にリナのものだった。男としてはプライドが許さないと思っても仕方がないほどなのに、修は心地よさすら感じている。まりえや、奈々子に対しての思いとは正反対の思いをリナに抱いているのだった。
 今、目の前にいるまりえの後ろ姿を見ていると、まりえを追いかけている自分の姿が想像できる、追いかけても追いかけても追いつくことのできない思いは、まりえが本当に自分の求めている相手であるのかどうか疑問であった。
 まりえの行動パターンは、修の想定外であることも多かった。まさか、喫茶店を辞めているというのもビックリしたし、辞めたと聞いたその日に目の前に現れるなど、想定できるはずなどないだろう。
 まりえには、伝染病のイメージを植え付けられた。元々がリナの言葉で意識し始めたまりえだった。目の前にいて、一番近しい女性を思い浮かべた時、奈々子とまりえが浮かんだが、奈々子は近すぎる存在に思えた。しかも兄という存在も、無視することはできなかった。
――人は死んだらどこに行くのだろう?
 奈々子の兄が自殺したというが、自殺を敗北と捉えるには、彼の遺書は自信に満ちていたように思える。死んでもなお、この世に影響を与えるだけの力を持っているかのような自信が、一体どこから出てくるというのだろう。
 死ぬほど好きになった女性からフラれて、生きているのが辛いと思うことがあっても、本当に自殺する人はなかなか聞かない。確かに失恋し、お先真っ暗の状態で死を意識しても行動に起こすまではないのだ。
 死ぬのが怖いという意識があるからだろうが、それは
「痛い、苦しい」
 を味わいたくないという思いよりも、覚悟ができないからだろう。生きていても望みはないと思っているくせに、何の覚悟がいるというのか、考えてみれば不思議だった。
 死んでしまって、生きている人から同情されるどころか、きっと
「情けない」
 と思われるであろうことは分かりきっているが、それを辛いと思うとするならば、あの世から、こちらの世を見ることができると思うからであろうか。
 修は、死にたいと思ったことがないので分からないが、もし死にたいと思ったとすればどんな思いをするかということは考えたこともあった。その時は「痛い、苦しい」という思いを飛び越えて、最初から生きている人間から何と思われるかを考えてしまった。あの世からなら、こちらの世を見ることができると信じていたからだった。
 今もその思いに変わりはないが、それが死を思いとどまる理由とは思えない。
 今の修の考えは、
「死ぬも生きるも紙一重」
 という思いだった。
 それは、パラレルワールドの発想に似ている。
 次の瞬間には、限りない可能性が秘めているという考えから行けば、必ず生きているという可能性はどれだけなのだろう。次の瞬間には命がなくなっている可能性は限りなく皆無に近いが、ゼロではない。さらに次の瞬間に可能性は広がっている。ただ、それは自らが命を操作するという可能性ではなく、偶然、いや運命というものに作用されるとすれば、紙一重という考えもまんざら乱暴なものではないだろう。
 結果としては同じ死ではあるが、運命によるものと、自らの手で運命を曲げるものとでは大きな差があるのかも知れない。しかし、別の考え方として、自らの手で運命を曲げているというが、本当は自らの意志すら、運命の悪戯なのではないかと思うと、発想はかなり変わってくるだろう。
 運命を変える分岐点があるとすれば、死ぬことではないだろうか。そう考えると、死んだ後に、この世にまったく影響を及ぼさないというわけではないはずだ。
「肉体が滅びても、魂は生きている」
 という考えに類似しているもので、修もその考えには賛成だった。死んだ後にどこに行くかというよりも、どれだけこの世に影響を及ぼしていられるかという方が、大きな問題だと思うのだった。
 修は、奈々子の兄の存在を意識しないと言えばウソになるが、遺書のような日記を見ることで、
――俺と似たような考えなんだな――
 と感じた。
 必要以上に意識する必要はない。自然に接していれば、奈々子が自分を好きになってくれるという自負さえあった。
作品名:異能性世界 作家名:森本晃次