異能性世界
まりえと会ってから一週間くらいが経っていた。辞めたと聞いた時、その一週間がさらに以前のことであったかのように思えたのだ。
「一体、どうして?」
「理由は聞かなかったんだけど、少し暗かったのだけは覚えているよ。だから、あまり聞かなかったね」
まりえとは、結構難しい話をしたような気がするが、どんな話をしたのかを、今となってみればすっかり忘れてしまっていた。いや、忘れたわけではなく、二人だけの世界を濃密に作り上げたことで、彼女がいなくなった瞬間、記憶の奥に封印されたのかも知れない。封印するにも限界があるので、忘れてしまったと思うのも無理のないことだった。修はまりえとの会話を無理に思い出すこともせず、その日は、夕食を喫茶店で済ませ、家路につくことにした。
まりえのことを気に掛けながら家に帰ると、部屋の前に一人の女性が立っているのに気が付いた。
「まりえ?」
まさか、さっき辞めたと聞かされたまりえが家の前に立っているなんて、自分が望んでいることが展開されたことに喜びよりも驚きの方が強かった。正直、ゾクッとしたくらいだった。
修はまりえに近づくと、笑顔を見せた。だが、その笑顔は引きつっていたように思う。まりえも同じように笑顔を見せてくれたが、まりえの笑顔も引きつっていたのだ。
「どうしたんだい?」
「修さんに会いに来ました。私が喫茶店を辞めたことがご存じですか?」
「ええ、店の人に聞きました」
「ビックリしたでしょう?」
「少しビックリしたけど、でも、今ここにまりえちゃんがいる方が、もっとビックリしているんだ」
「ええ、実は大時計と、絵を見に来たんですよ」
「この間、骨董品屋で買った? その話、したっけ?」
「私は聞いた気がしました」
修には記憶はなかったが、まりえが聞いたというのであれば、したのだろう。だが、わざわざ見に来たというのは、どういうことなのだろうか?
「どうぞ」
と、言って修はまりえを部屋に招き入れた。
最近、誰も部屋に入れたことがなかったので、まるで自分の部屋ではないかのような雰囲気を感じたが、暖かな空気が漲りそうで、久しぶりに部屋に息吹がよみがえったような気がした。
大時計の隣に絵は置いてある。少し大きいので壁に掛けることはせずに、下に置いていたのだ。
まず、大時計が気になったのか、まりえは手に取って時計を見ていた。耳を近づけて、時を刻む音をウットリしながら聞いているように思えた。修も時々同じように耳を当ててみる。それほど時計の音が気になる時があったのだ。
「ただ聞いているだけでも心に響きそうな音ですね」
「まったくそうだよね。僕も骨董品屋さんに入った時、最初に目についたのが、この時計だったんですよ。少し高かったけど、やっぱり買ってよかったと思っています」
この時計は完全に、この部屋に馴染んでいる。骨董品屋以外の他の部屋にある雰囲気を感じないほどだ。もし想像できるとすれば、中学時代に行ったというリナの家のような大きな屋敷だけだろう。西洋の城の絵が似合うような家だ。当然、この大時計も似合うに違いない。
「まりえちゃんは、時計が好きなのかい?」
「ええ、昔から好きでした。家にも、これよりは小さいけれど、少し大きな置時計があって、最初は皆時計を気にしていたんだけど、次第に誰も気にしなくなって、最後まで気にしていたのは私だけだったんですよ。でも、ある日父親に捨てられちゃいました。私はとてもショックだったですね」
時計に限らず、自分が大切にしていたものを勝手に捨てられるとショックである。自分の所有物ではないのでしょうがないのだろうが、相談の一つもあっていいのではないだろうか。
まりえは続ける。
「私はそれから、しばらく家族と口を利かなくなりました。そのうちに家族の考えていることが分からなくなったんです。それが次第にまわりの人皆が分からなくなって、その頃から同じ日を繰り返しているんじゃないかって発想が生まれてくるんです」
「まりえちゃんが、同じ日を繰り返していると思うようになったのも、その頃からなのかな?」
「ええ、そうなんですよ。自分がまわりを信じられなくなると、まわりが次第に私の存在がまるで薄くなったかのように接してくるんです。最初は意地悪かと思ったんですけど、一人じゃなくて、皆なんですよ。その時から、私も皆のことが意識から薄くなっていって、その頃から忘れっぽくなったんです。それからですね、同じ日を繰り返しているんじゃないかって発想に至るようになったのは」
まりえには、時計に対しての思い入れがかなりあるようだった。
修もまりえの話を聞いていて、自分には時計とは因縁がないと思っていたのに、何か忘れていることがあるように思えたのは、時計のことではないかと思うようになった。確かに中学の時の記憶がないのは、少年の失踪に関わることが大きかったが、その時と前後して、時計の記憶が何か影響しているように思えてならなかった。
中学時代の記憶が欠落しているのは、少年の失踪の時からだと思っていたが、実は違ったのかも知れない。時計のことが気になっているとするならば、少年の失踪からそう遠くない過去に、時計のことで記憶を欠落させる何かがあったのだろう。
だから、少年の失踪の時には、すでに記憶の欠落が始まっていて、感覚がマヒしていた時期だったようだ。そのために少年がいなくなった時、
「夢を見ているようだ」
という感覚になり、実際に見たはずの少年の姿を幻だと思ってしまったのだろう。欠落した意識がさらに欠落し、まったく覚えていないところだけが問題だと思っていたが、覚えているところも、ところどころ、間違った意識を持っていた。そのために意識がゆがめられ、同じ日を繰り返しているような錯覚が身についてしまったのだ。
「マイナスにマイナスを掛けると、プラスになる」
という感覚に似ているように思うのは、中学時代に理屈っぽいところがあり、それが数式に当て嵌めて考えるところだったことがアダとなったのかも知れない。
「そういえば、私、この時計をどこかで見たことがある気がするんです」
「骨董品屋ではなく?」
「ええ、かなり昔のことなんですけど、子供の頃のことだったかも知れませんね。そこにある絵も実は見た記憶があるんですよ。でも、同じ時期ではなかった気はするんですけどね」
「絵はいつ頃見たんだい?」
「確か、高校の頃だったと思うわ。この絵を見て、中学時代まで絵画に興味がなかったのを後悔したくらいですからね」
「誰かの家で見たのかい?」
「時計は確か、誰かの家だったと思います。でも絵は喫茶店で見たんですよ、私が喫茶店でアルバイトをしたのは喫茶店が好きだからなんですけども、喫茶店が好きになった理由は、この絵を喫茶店で見たからだと、今でも思っています」
まりえは時計の横の絵を見ながら、目を細めるようになっていた。その表情は無意識のもので、時計に比べて絵を見る時の表情は、まるで他人事のようだった。