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異能性世界

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 中学生になると、成長期ということもあって、一日の長さが不安定だった。長く感じることもあったが。あっという間だったこともあった。その時初めて時間の感覚の違いが精神的なもので感じることだと思ったのを思い出した。
 中学時代に忘れてしまったトラウマが何だったか、今必死に思い出そうとしている。しかし、簡単に思い出せるものではないが、最近の経験が、それを容易にしてくれるような気がするのだった。
 高校時代になると、小学生の頃からのイメージがそのまま繋がっているように思える。中学時代をただ通り越しただけのように思っていた。中学時代の三年間が何だったのかなど、考えたこともなかった。
 高校の時の三年間が、本当は中学時代に感じるものだったような気が、今はしてきていた。何事においても、晩生だと思っていたがそれは中学時代を飛び越えて高校生になってしまったからだと思うのだ。
 中学時代がなかったなど、ありえない。だが、なかったようにしか記憶にないのは、封印してしまったからであろうか。それともその時に、今と同じような発想があり、今思い出したことで、中学時代の記憶を思い起そうとしているからなのかも知れない。
 中学時代というと、身体の成長期であり、精神的な成長が身体に追いついていけるかどうかが問題ではないのかと、冷静に考えれば思うのだ。
 精神的な成長は、子供の頃の記憶になるのか、大人としての記憶になるのか微妙なところだ。修はそれを子供の頃の延長だと思っている。ただ、実際の中学時代には、大人の仲間入りだと思ったはずだ。その考えの相違が、今記憶の中でポッカリと大きな穴を開けているのかも知れないと思う。記憶の相違というのは、そういうところから生まれるのではないだろうか。
 中学時代のことを、今の段階で思い出すということを考えれば、今何を大きく考えているかということを思い起せば、答えは見えてくるのではないかと思えてきた。
 では、今何を大きく考えているかというと、
「同じ日を繰り返している」
 という感覚と、
「死」というものに対しての意識の二つではないだろうか。
 そう考えてみると、中学時代のことが少し思い出されてきた。
 確かに中学時代、死にたいと思ったことがあった。その理由は今すぐには思い出せないのだが、確かに死について考えたことがあったのは事実だ。だから、
「痛い、苦しい」
 という思いと、
「これから、もっといいことがあるかも知れない」
 という将来への希望という意味で、考えることができたのかも知れないが、思いとどまったのは、ただ、死ぬ勇気が持てなかったからだろう。中学生とはいえ、死ぬ勇気を持てなかったのは、恥かしいことのように思えた。だから、死のうと考えたことと、死ぬ勇気が持てなかったことが自分の中で記憶の封印を試みたのだろう。それがトラウマとなって今まで思い出すことができなかったのだ。
 もっとも、思い出そうともしなかったのは、その時代が自分の中で思い出してはいけない記憶として暗黙の了解になってしまっているのだ。思い出すことをしない方がいいという警鐘を鳴らし続けていたのだろう。
 中学時代というと、テレビドラマなどで、自殺を試みる話を見たりすると、そのことが夢に出てくることもあった。夢の中で、勝手にストーリーを作り上げ、
「よく知らない話をここまで発展させて想像できるものだ」
 と思うほど、想定内ではありながら、想像できるギリギリまでできてしまう発想に、我ながら驚かされたものだ。
 中学時代が暗黒の時代だと思っているのは、苛めがあったからなのかも知れない。自分ではあまり記憶にはないが、苛められていたのは事実のようだ。高校時代になって、自分を苛めていた連中が、今度は自分に一目置くようになったことで、中学時代の陰凄な記憶が一気に封印されてしまったのだろう。一目置かれることは自分にとって成長の証のようなものであり、苛めを否定することは矛盾を生んでしまうので、否定せずに気にしないようにするには、記憶を封印するしかなかったのだ。
 高校生からの記憶が修にとっての大人の記憶であり、中学時代は暗黒の時代として思い出そうとしなかったのが、今までのバランスを築いてきたのだ。
 死にたいと思ったことが記憶の中になかったわけではない。それは中学時代のことではなく、もっと最近のことで、大学生の頃だった。理由は女性にフラれたというもっと恥かしい記憶であったが、その時の記憶は残っているのだ。
 中学時代の死に対して勇気が持てなかった時の方を恥かしいと感じたのに、大学時代はフラれた程度で死にたいと思ったことに対しては恥かしいと思わなかった。恥かしいというよりも、フラれたことのショックが大きく、死にたいと思ったのも一瞬で、死を考えたことに対して、それほど感慨が深いわけではなかった。
 今、部屋にある大時計、時計の刻む音を聞いていると、懐かしさを感じていたのだが、それがいつの時代への懐かしさなのか、ずっと分からないでいた。それが中学時代の封印されてしまった記憶の中にあるという発想が、どうしてなかなか出てこなかったのか、それだけ中学時代の記憶というものが、封印された事実よりも強烈に自分から切り離そうとしている何かがあるのかも知れないとさえ思ったほどだ。
 中学生の女の子を意識するのは、中学時代に戻りたいからではないだろうか。封印してしまった意識の中に、好きな女の子がいたのかも知れない。それが本当に自分の初恋の女の子で、しかも、封印するに至る原因が彼女にあったのではないかと思うのだ。異性を意識し始めたのは高校時代からだと思っていたが、中学時代にはすでに異性を意識し、好きになった女の子もいるのかも知れないと思うと、自分の中で、何かが狂ったとすれば、中学時代だったのではないかと思うようになった。
 もし、中学時代の記憶が普通に残っていれば、今感じているような、
「同じ日を繰り返している」
 という意識や、「死」に対しての特別な思いなどを感じることはなかったかも知れない。中学時代を今さら思い出すのは、何もなければ勇気のいることだ。それでも思い出さなければいけないと思うのは、マヒしていた感覚に、感情が戻ってきたからなのかも知れない。今さら感情が戻ってきて、どうすればいいのか分からないが、徐々にでも思い出す中学時代は、今だから思い出さなければいけない時代だったに違いない。
 今、部屋の中にある西洋の城を描いた絵、あれをいつか見たという記憶があったが、これも中学時代だったかも知れない。どこかの美術館で見たのだが、この絵と同じ日に、時計の絵を見たのも思い出した。時計が歪んだ絵は、有名な欧州の画家が描いたものを見たことがあったが、その時の絵は日本人のあまり有名ではない人の描いた絵だった。
「模倣作品じゃないか?」
 と、誰もが思うのだろうが、修はそうは思わなかった。その絵は明らかに修の意識を刺激した。その日の夜に夢に見たことも、今だから思い出せたのだ。
 その絵は西洋の城の絵の隣に飾ってあった。同じ作者の作品ではないようだが、並べ方にも疑問を感じながら見ていると、城の絵まで、修の中で何か意識の扉を叩く音が聞こえてくるようだった。
作品名:異能性世界 作家名:森本晃次