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異能性世界

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 修にしてもそうだった。だが、知っている人が少なくなっているかも知れないと感じてから、交差点を通る時は、視線を意識するようになった。自分もまわりに視線を浴びせ、それに対して返ってくるかも知れない視線に期待もしたりしていた。もちろん、限りなくゼロに近い期待であることは分かっていた。分かっていても送り続けるのは、知っている人が減ってきていることへの反発の意志があるからだろう。
 返ってくる視線が皆無に近いと、それが続いていくうちに、感覚がマヒしてくる。少々のことでは驚かないようになったのも、そのせいではないだろうか。その頃から、今まで気にもしなかったものに興味を持つようになってきた。骨董品など、そのいい例ではないだろうか。
 修は、パラレルワールドを考えた時、極端な世界を思い浮かべた。今まで自分の想定内でしか発想できなかったが、想定外の発想も交差点を思い浮かべることによってできるのではないかと思ったのだ。
 それは今までタブーとされてきたことへの思いであった。特に感じているのは「死」についてである。
 神聖で犯すことのできないものだと思っていた「死」、それは神の領域で、人間が入り込んではいけないものだと思っていた。想定外のことを思い浮かべるには、神の領域に入り込む必要があると思ったのだ。
 交差点で毎日会っている人が急に消えてしまうと、それは別の世界での「死」を意味していると思うようになった。一日でも会わなかったりすると、次の日に現れたとしても、その人は、まったくの別人ではないかと思うのだ。
 もし声を掛けたとしても、相手は知らないだろう。なぜならその人は一度死んでいるのだからである。
 だが、一日を過ぎると、また現れるというのは、「死」というのが自分の想定しているものではないという発想である。記憶をすべて消されたまま、肉体はそのままに、もう一度違う人間として生まれ変わっている。同じ人間に見えても、目の前の人は違う世界から飛んできているからなのかも知れない。自分を知っている人が減ってきていると思うのは、ずっと一つの世界にいるからで、他の世界の人が交差点の中で、文字通り交差しているなどと思ってもみなかったからだ。
 天国や地獄を思い浮かべる時、「あの世」という言葉を使う。人間は死んだら、魂だけが天国か地獄に行くものだと信じられていて、それを決めるのは神の領域の問題だと信じている。
 だが、果たしてそうなのだろうか? 天国と地獄という二つだけの世界の存在だけで片づけられないものだと修は思うようになった。
 パラレルワールドと、「死」というものを一緒に考えてしまうと、却って混乱してしまうのかも知れないが、一緒に考えてしまうと、今まで理解できなかったことを理解できるようになり、さらに納得もできるのではないかと思うのだ。
 まわりとのかかわりをあまり意識したことのない人は、特にパラレルワールドに嵌りやすいのかも知れない。次の日に、同じ世界を繰り返しているように感じたり、知らない人が急にまわりに増えたり、知っている人が減ってしまっていたりするのも、普段まわりを意識していない人が急に意識することで、まるで我に返ったかのように感じてしまうからであろう。そう思うと、「死」というものを意識できる人は、人とのかかわりをあまり意識していなかった人ではないかと感じるのだった。
 死を選んだ奈々子の兄の日記を見ても、人とのかかわりがあった人間だとは思えない。自分だけで生きてきて、自分で勝手に死を選んだように思えるのだが、奈々子には悪いのだが、修にはそれが自分勝手な発想には思えなかった。必然の中にあり、死を選んだことはその人にとっての「潔さ」だと思うのだった。
「人は誰でも一度は死ぬんだ」
 と思うからなのだが、ここでまたもう一つ、新たな疑念が生まれてきた。
「一度は死ぬ」
 という言葉は、一度しか死なないと決まっていることなのに、おかしな言い回しだと、どうして誰も思わないのだろう?
 ひょっとして、この言葉の言い回しが本当で、
「人は一度以上死ぬ」
 というのが正解なのではないだろうか。
 一度死んで、生まれ変わるという発想はできないわけではないが、あまりにも突飛な発想なので、納得できるところまで考えが及ばない。したがって、最初から想定外の発想だと思うことで、そこまで考えてきたことを、すべて打ち消してしまうのだ。
 無意識に打ち消してしまうのであろう。そうでなければ、途中まででも考えたことを、
「もったいない」
 と思わないからだ。
 時間を使って発想したのだから、少なくとも時間に対して、もったいないという発想が生まれてくるはずである。それもないということは、無意識に考えを打ち消しているという発想が生まれてくるのも無理のないことであろう。
 そうなると「死」というものへの発想がすべて変わってくることになる。
 自然に死ぬことと、事故でやむなく死ぬこと、人から殺されること、そして、自らで命を奪うこと。死には様々な過程があるが、それぞれに行先も違ってくるだろう。だが、中には生まれ変われるものがあるとすればどれなのかと、修は考えてみることにした。
 自然に死ぬことが一番生まれ変わることのできるものなのかも知れない。いわゆる寿命の全うであるから、訪れる死に対しては一番神の意志に近いからだ。
 事故の場合も、本人の意識の働いていない場所での出来事で、死んだ人間が一番自分が死んだことを分かっていないかも知れない。あの世へ行くにも迷ってしまい、彷徨う可能性は大である。ちょうど同じ時期に生まれた赤ん坊に魂が乗り移ることができれば、生まれ変わりに成功できるのではないかと思うのは、危険な発想であろうか。
 修は、最近になって、中学生くらいの女の子を意識するようになった。それは、リナと出会ってからのことなので、本当に最近のことである。
 それでもひと月以上前くらいからのことのようで、それだけ思いが濃いのかも知れないと思った。
 今年、三十歳になったが、それまでは同年代か、年上に憧れることが多かったが、付き合うのは、二つくらい下の人ばかりだった。
 極端に年下に興味を持つことがなかったのに、急に年下に興味を持つようになったのはなぜだろう?
 何か、忘れてしまったことの中に、中学生の時のトラウマがあったのかも知れないと感じた。それが嫌な思い出だったのかどうか、覚えていない。
 時々中学時代のことを思い出すのだが、中学時代というと、あっという間に通りすぎたという記憶しかない。小学時代から思えば、中学時代は憧れだったのを覚えている。憧れの中学生になり、友達も増やしていこうと思っていた記憶はあるのだが、そこからは少しずつ記憶が薄れていったようだ。記憶が薄れるということは、それだけ時間もかかっている。
 時間が掛かったということは、それだけ中学時代の時間を長く感じていたということなのかも知れない。
 確かに小学生の頃は、一日がずっと続くのではないかと思うほど、時間が掛かっていた。早く大人になりたいという思いが強かっただけに、じれったかったというのが本音であった。
作品名:異能性世界 作家名:森本晃次