異能性世界
事務員の女の子がトイレに行こうとして立ち上がった修を給湯室から招き寄せるので行ってみると、そんなことを聞いてくる。
「どこに行っていたって? どこにも行かないさ。昨日と同じように出勤してきただけだよ」
「秋山さん、何言ってるんですか。三日も無断欠勤していたじゃないですか。その間に仕事だって溜まってきていませんか?」
と言うではないか。
そういえば、その日は誰もが静かに黙々と仕事をする中で、修を変に意識している人もいた。黙々と仕事をする雰囲気は毎日のことで、あまり好きではなかったが、それ以上に必要以上に意識されるのは、もっと嫌だった。
「僕は別にどこも行かないさ。今日は昨日の次の日さ」
と、答えたが、彼女は修の言葉の意味を理解しかねていた。
それはそうだろう。修が同じ日を繰り返していることを考えているなど、誰も想像できるはずなどないからである。
彼女は、三日の無断欠勤だと言った。確かに同じ日を繰り返しているという感覚が三日に渡って繰り広げられたのは分かっていたことだ。やはり、一日の繰り返しは、別に広がった別の世界で、この世界と同じ時間を過ごし、三日経って、またこの世界に戻ってきたということだろうか。
もし、他の人で同じような経験のある人がいるとしても、それほど大きな問題にはなっていない。問題にすることをタブーとされるのか、それとも、別の世界に入り込んだ時間が短いので、まるで夢を見ていた時間として理解できるから、誰も問題にしないだけなのかも知れない。
「三日も無断欠勤したというのに、誰も何も言わないけど?」
普通であれば、上司である課長から小言を言われるくらいは覚悟しないといけないのだろうが、何も言われないというのも気持ち悪い。
「そうなんですよね。本当なら課長が何か言わないといけないんでしょうけど、課長から呼び出されたりしていませんか?」
「いや、何もないよ。ただ、まわりの人の視線が少しおかしいような気はしていたんだよ。でも無断欠勤を責めるような視線ではなく、どちらかというと、まるで幽霊でも見ているかのような掴みどころのない視線に感じるから不思議なんだよ」
と修は事務員に答えた。
ひょっとすると、三日間の無断欠勤だと思っているのは、彼女だけなのかも知れない。それにしても幽霊でも見るような視線の意味は一体何なのだろう? 知っている人間に対してあのような視線を浴びせるのはおかしなものだ。
「秋山さん、先日の資料できていますか?」
さっき、後輩からそう言われて、
「ああ、できてるよ。後で持っていこうね」
と言った時、最初はまるで勝ち誇ったような視線を浴びせていた後輩の顔に、怯えのようなものが走った。できているという言葉を発してから、明らかに後輩の視線が変わったのだ。
資料ができていることにビックリしたようだ。ということは、最初の質問は、「咬ませ」だったことになる。できていないと知りながら、聞いてくるのは、完全な確信犯であり、何のためにそんな回りくどいことをしなければいけないのか分からなかった。
修は後輩から、そんな意地悪をされるような謂れはなかった。今までに苛めたこともなければ、恨まれることもないはずだ。後輩も意地悪な性格でないことは分かっている。修の何かを試そうとしているのか、きっと後輩の中で、修に対して何か違いを感じているのだろう。
その違いは漠然と感じているだけなのか、それとも何か確信めいたものがあって、それを確かめようとしているのか、すぐには分からなかった。少々手荒なことをしてでも、その疑問を解消しなければいけないという意識を持たせる何かが、後輩の意識の中に芽生えたのかも知れない。
資料の締め切りは確かに今日だったはず。昨日まで普通に仕事をしていたのだから、できているのは当たり前なのに、どうしてできていないかのようなイメージを持たれたのだろう?
事務員は三日間の無断欠勤だと言った。もし、それが本当で三日間の無断欠勤の間に締切がきているのだとすれば、確かにできていなくて当然だ。後輩はそれを見越したのだろうか。
この会社は仕事を自宅に持ち帰ることはできないので、密かに資料を作ることもできない。したがって、欠勤していればどんなに頑張ってもできているはずはないのだ。
それとも三日間、無断欠勤ではなく会社には来ていたが、その時の様子が普段とは違っていて、仕事がはかどっていなかったのかも知れない。まったく別人のように、心ここにあらずの抜け殻のような状態で、仕事をまともにこなせていなかったのであれば、まわりから見て、仕事の態度を糾弾するために、資料ができていないことは恰好の材料だったはずだからである。こちらの方が、まわりの視線に対して、納得できる状況ではないだろうか。
それにしても、どうして一人だけ無断欠勤だと思ったのだろう? 彼女の中で修は特別な人間だったからだろうか。この三日間というものが、彼女と彼女以外で、明らかに違った時間がそこに存在していたことになる。
修は今までに一日を繰り返していると感じたことがあったが、確かにその時であれば、一日欠勤しても、その次の日には追いついていた。まわりにそのことを悟られることはなかったので、自分でもなるべく意識しないようにしていたくらいだ。
今日は前に起こった日を繰り返しているという意識はなかったはずなのに、まわりが修に対して異常な反応を示している。しかも人によって違うというのもおかしな話だった。
ただ、違うのは一人だけで、他の人たちはおかしいながらも、見えていることは同じことのようだ。
事務員は三日間だと言っているが、他の人たちが修のおかしかった日を何日だと見ているのだろう。三日もおかしかったら、きっと誰かが注意するのが本当であろう。そうなると、事務員と他の人たちの修に対して感じている「時間」も、同じではないのかも知れない。
その日仕事が終わって、修は事務員の女の子を夕食に誘った。普段なら特定の女の子を食事に誘うなどすることはない。誘っても断られるに違いないと思ったからだ。しかも、他の女の子に話が漏れてしまって、仕事がしずらい立場にしばらく追いやられるのではないかと思うからだ。
彼女は名前を藤本奈々子という。奈々子は、修の部署に短大を卒業し、新卒入社の三年目だった。
三年目であるが、まだ初々しさの残ったところがあった。ただ、仕事に関しては堂々としているところがあり、一見、共通性のないように感じるが、それだけ彼女が自分に自信を持って仕事をしているのだと思えば納得できるのだった。
食事は会社の近くというよりも、駅裏にある静かな喫茶店を選んだ。
店を選んだのは修ではない。奈々子だった。
「以前から行ってみたいと思っていたんですが、一人では入りにくくて、秋山さんと一緒でしたら、ぜひにと思っていたんですよ」
その言葉を聞いてドキっとした。まるで前から修のことを意識していたような言い方ではないか。告白とまで大げさなものではないが、同じ会社の事務員だということで必要以上に意識しないようにしていたことで、彼女の視線に今までまったく気付いていなかったことを自分なりに後悔していた。