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異能性世界

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 つまりは、一日という単位だけでなく、いつ何時「繰り返し」が発生するかということである。
 こうなれば、「繰り返し」ではなく「巻き戻し」となるのだろう。
「繰り返し」と「巻き戻し」では明らかに違う。
 繰り返しはまったく同じことを繰り返してしまうことで、まわりの環境も本当に昨日と変わらないと同じにはならない。したがって。パラレルワールドも制限されてくるであろう。
 しかし、巻き戻しの場合は、過去のある一点に戻っただけで、そこからの可能性は無限に広がる。つまりは可能性の数だけパラレルワールドが広がってくるということだ。
 もし本当に過去に戻れるとして、繰り返しと巻き戻しのどちらを選ぶかと言われれば、どちらを選ぶだろう? 単純に考えると自由な選択ができる巻き戻しを選んでしまうだろうが、巻き戻しをすることで、今よりもさらに悪い状態に陥らないとも限らない。何しろ可能性は無限にあるのだから……。
 この日のテレビ番組に関しては、明らかに繰り返しであった。自分の意志に関わらず、まわりが前の時間を自分に見せているのだ。巻き戻したという感覚とは少し違う。つまりは自分の意志などによる「力」がそこに存在していないと、「巻き戻し」とは言えないだろう。
 一日を繰り返しているという感覚は、本当にまわりからの力によるものを感じなければ言葉にできないことだろう。それだけ繰り返しと巻き戻しでは、ニュアンスが違ってくるのだ。
 一日を規則正しく繰り返すということに、何が不思議といって、繰り返すことよりも、「規則正しい」
 ということの方が、よほど不思議なことなのだ。それを意識してできないほど、繰り返しに意識が集中している。それだけ、繰り返しというのは、怖いのだろう。
 繰り返しの怖さは、まったく同じことにあった。まったく同じことでなければ繰り返すは成り立たないと思っているが、まったく同じことなどありえない。どこかで必ず違っている。違っているからこそ、繰り返しを信じることができる人がいるのだし、理屈として考えようとも思うのだ。
 また新しい一日が始まろうとしている。表に出ると、空気は昨日と違って、少し冷たく感じられた。一日一日、確実に季節は変わっているのだ。
 自然は繰り返しにも巻き戻しにも関係なく作用しているようだ。前の日が雨だったら、次の日も雨だとは限らない。それでも同じ日を繰り返しているという意識があるならば、それは同じ日ではなく、雨が降った時まで遡った日を繰り返していることになる。
 繰り返しは前の日しかないという理屈が成り立たないと、その間の数日は、雨が降った日の前に戻されたことになる。意識というものを超越する力が働いているということなのか、それとも、繰り返しの意識というものが、それほど曖昧なものなのかの、どちらかではないだろうか。
 意識が曖昧だからこそ、一日を繰り返しているという思いを植え付けられているのかも知れない。
 デジャブというのをよく聞くが、デジャブは一度も見たり行ったりしたこともないはずの場所で、
「以前にも見たことがあるような気がする」
 という意識を植え付ける「錯覚」である。
 本当に錯覚だと言いきれるのかどうか疑問ではあるが、錯覚だとすれば、一言で言って、意識の曖昧さが生んだものだと言えなくもない。自然現象まで人間の意識が左右できるなどと言う考えは、やはり人間の傲慢さとおこがましさが引き起こす「錯覚」にすぎないのであろう。
 それにしても、今日は一体何が起こるというのだろう?
 修は、その日、過去を繰り返しているという意識も、巻き戻しているという意識を持っていなかった。新しい一日を歩んでいるという感覚である。
 過去を繰り返していると思っている時は、さほど恐ろしくはないが、新しい日を生きていると思うと、必要以上の意識が生まれ、恐怖すら感じるのだ。
 同じ日を繰り返しているという意識がない時は、新しい日を当たり前のことだと思い、意識すらしていなかった。いや、十歳代、学生の頃までは、新しい日に希望というものを抱いていた。今でこそ希望など、どこかに消えてしまっていて、新しい日への期待も何もなくなってしまっていた。
「同じ日を繰り返しているという意識を持ったのは、新しい日に対して、希望も何も持たなくなった頃からなのかも知れないな」
 と、漠然と感じたが、希望も何も抱かなくなったという投げやりな意識が、過去を繰り返すという扉を開けてしまったのかも知れない。本人の意識するしないは問題ではなく、ここに何かの力が働いているかも知れないのだ。
 会社に赴くと、昨日やった仕事が終わっていた。昨日を繰り返しているわけではない。昨日の仕事がもし残っていたとして、今日も同じようにさばけるかというと、そうでもない。
「同じことをするのだから、同じスピードか、もしくはさらに早く、同じ内容にさばけるはずだ」
 とはいかないのだ。
 理由は一つ、昨日やったことだという意識はあっても、どのようにこなしたかということを忘れているからなのだ。片っ端から忘れてしまっているようなのだが、その日に忘れてしまうものに共通性があるのだろうか。都合のいいこと、都合の悪いこと、それぞれにその日、自分にとってどちらかのことを忘れてしまっているように思える。意識していなければ、その時は分かっていても、後になってすべてを忘れてしまっていることだってあるだろう。一日を繰り返しているということを最初から信じていない人は、本当は経験しているのに、すべてを忘れてしまっているから、信じられないと思っているだけなのかも知れないのだ。そう思うと、すべての人に過去を繰り返す可能性があり、特殊な選ばれた人間だけという考えは成立しなくなる。修はその考えが頭に浮かんだが、本当は否定したかった。
「俺は他の人とは違うんだ」
 という意識が、自分を奮い立たせる力になっていると思った修にとって、誰もが一日を繰り返しているという可能性を持っているとするのは、許せない感覚だった。決して認めたくないもので、自分がより一層意識しないといけないと思っていたのだ。
 意識しすぎると、今度は却って、同じ日を繰り返すことができなくなる。昨日までは同じ日を繰り返しているという感覚があったのに、今日は新しい日を迎えたようだ。他の人ならホッとするところなのだろうが、修にはホッとするどころか恐怖が漲っている。その時修は、
「恐怖というのは、知らないことから始まるんだ」
 という意識を持ったのだった。
 他の人は、知っていることを繰り返しているのが怖い。自然現象では繰り返すことができないという意識があるからだ。
 修は繰り返していることに、自然現象が関与していないことは分かっている。だから怖いとは思わない。
 ただ、新しい一日と言っても、昨日の続きであり、まったく違ったところに飛び出したわけではないので、怖いなどという感覚はないはずだった。会社に行っても、前の日の続きが残っている。仕事に関しての前の記憶はしっかり残っていた。
 だが、人間関係ではまったく違った。
「秋山さん、今まで一体どこに行っていたんですか?」
作品名:異能性世界 作家名:森本晃次