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異能性世界

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「同じ日を繰り返した時は、その日はその人にとって、どうなるのだろうか?」
 また、おかしな疑問が浮かんできた。一つを考えれば、次々にいろいろなことが疑問として浮かんでくる。
 同じ日を繰り返すのだから、他の人より一日遅れて進んでいることになるのだろうが、そうなると、永久に平行線になるはずなのだが、翌々日には自分を皆が分かってくれている。
 ということは、一日だけ繰り返しても、その次の日には、逆に一日を飛び越えて、皆に追いついていることになる。
「同じ日を繰り返しているということよりも、一日を飛び越えることの方が難しいんじゃないか?」
 と思った。
 だが、同じ日を繰り返しているということは、前の日の他の人が、追いついたとも考えられるのだった。
 SFなどのタイムスリップの話の中で、一番問題になるのが、過去に戻った時の、「パラドックス」である。
 つまり、過去に戻ることで、過去を変えてしまう可能性があるということだ。過去を変えてしまうと、未来に起こることが変わってしまう。それが問題になる。一番いい例として本で読んだことがあるが、自分が生まれる前の親の前に現れて、自分の親を殺してしまうという話だった。いわゆる
「親殺しのパラドックス」
 である。
 自分の親を殺してしまうと、自分が生まれてくることはない。
 では、親を殺しに行ったのは紛れもなく自分であり、殺しに行く自分が生まれなければ、親を殺すこともなく、自分が生まれてしまう。
 自分が生まれれば、やはり親を殺しに行くことになるだろう……。
 まるで「三段論法」にも似ている話で、
「ヘビが自分を尻尾から飲み込むような話だな」
 と、誰かが言っていたのを思い出していた。まったくその通りである。
 このような話が、同じ日を繰り返している中で生まれてくるのではないだろうか。
 だが、それはあくまでも未来に自分がどうなるかが分かっているから、
「未来を崩してしまう可能性がある」
 ということへの懸念である。
 未来が分からないのに、未来を崩しているなどという発想はナンセンスではないだろうか。
 同じ日を繰り返すことが、パラドックスに繋がることはないが、
「親殺しのパラドックス」
 というものが、あくまでも現状の自分から考えた実際に住んでいた世界を、「すべて」だと考えているからである。
 しかし、それは仕方がないことだ。自分が住んでいた世界でしか、今の自分は存在することができないからだ。だから、他の世界の存在を意識しないのだ。それは見えない何かの力が意識させないように働いているのかも知れない。そう思うと、他の世界の存在を意識すること自体が「罪」であり、記憶力の低下や、意識の限界を感じたり、また、同じ日を繰り返しているような気にさせられることが、何かの「罰」なのかも知れないと思うのだった。
 大学時代に友達と、パラドックスについて話をしたことはあったが、ここまで考えたことはない。
 今から思えば、他の人と考える方が考えが狭くなるのではないかと思った。一人で考えている方が、領域を感じることなく、自分独自の自由な発想ができるからだ。人と一緒に考えることで、そこに「遠慮」が発生し、そこが一番人間臭いところではないかと思うのだった。
 どうしても、こういう発想には。「パラレルワールド」という言葉が頭から離れない。これこそ、
「親殺しのパラドックス」
 に対抗できる発想ではないだろうか。
 過去に戻ったとして、過去で一定期間過ごした中で、同じ時に戻ってきたとして、まったく同じ世界が広がっている保証はないのである。そういう意味では、「浦島太郎」というおとぎ話を思い出すと、ゾッとした気分になる。
 竜宮城から戻ってきて、戻ってきてみると、まったく違う時代に現れた。玉手箱を開けると、老人になっていたというのがあらすじだったが、それを「相対性理論」と置き換える考えもあるが、それは、時間を飛び越えたという宇宙規模の発想であった。
 しかし、そこまで大げさに考えなくても、戻ってきたのは同じ時代であり、ただ、誰も知っている人のいないところに現れたというだけで、老人になったのは、
「まったく違う人として生きるため」
 という発想は少々乱暴であろうが、それこそ「パラレルワールド」の発想であり、竜宮城が自分にとっての、「パラレルワールド」であるとすれば、戻ってきた場所が違っているのも当たり前というものだ。そこに時間差が存在するわけではなく、違う世界が開けたという思いではいけないのだろうか。
 だが、修はもう一つ考えていた。
 浦島太郎が戻ってきた世界は、決して違う世界ではなく、
「竜宮城の延長線上にあるものだ」
 という発想だ。
 竜宮城に行った時点で新たなパラレルワールドが開けていた。そして自分の知っている場所に戻ってくると、そこに広がっている世界は一度違う世界に入ってしまった延長だと思うのも決して乱暴な発想ではないように思えるのだった。
 同じ日を繰り返しているのも、本当はパラレルワールドではないかという発想も、「浦島太郎」の話から考えると、成り立たないこともない。本当に一つのことを考えるだけで、いろいろな発想が生まれてくる。まるで発想の「パラレルワールド」である。
 修は、まりえと話をしていて、いろいろな発想が生まれてきた。だが、まりえと話をしながら、自分だけの時間も作っていた。まりえがそのことを分かっているかどうか分からないが、少なくともまりえとの会話では、自分だけの世界に入ることができる。自分だけの世界に入ることで、発想が果てしなくなり、意識の限界も感じない。
 ただ、まりえと話をしている間は、覚えていく端から忘れてしまうなどと今まで感じていたことがウソのようだ。今まで忘れてしまったと思っていることも不思議なことに思い出すことができる。そこからまた果てしない発想が生まれてきそうなのだが、本当に一人だけで考えようとすると、そこには限界があることを意識していた。
 まりえとの会話は、その日はそれだけだったが、どれくらいの時間が経ったのだろう。果てしなく続いていきそうに思えたのがウソのようで、あっという間だった気がした。だが、話し始めを思い出そうとすると、相当以前だったように思う。それだけ充実はしていたが、意識が飛んでいた時間があったのかも知れないと思うのだった。
 まりえとの会話の中で一日の区切りを考えてみた。同じ日を繰り返しているという「一日」とは、いつを言うのかというのを素朴に考えてみた。
 一日という区切りは、人間の中で決めた区切りだと思っている。確かに天体の動きに合わせた区切りではあるのだが、それを無限に広がっているであろう「パラレルワールド」にも当て嵌めていいものだろうか。そう思うと、一日に限らず、自分たちが感じている時間や日に関する単位がどこまで影響しているかが不思議だった。
 ただ、時間を飛び越えたという意識は、一日という単位で感じるだけではなく、数時間でも感じることがある。それは夢を見ている時間に当て嵌めることができるからだ。
 夢の中では、
「時間を感じさせない」
作品名:異能性世界 作家名:森本晃次