異能性世界
共通点は、行動パターンが似ているということ。大学でもいつも講義室の一番前に陣取ってノートを取っている連中。真面目ではあるが、皆成績がいいわけではない。要領という点では、悪い方だろう。ノートを一生懸命に取っていても、それが成績に結びつかない。逆にまわりにノートを貸すことで、まわりの人の方が成績がいい。
ただ、その時は有頂天にさせられる。
「お願い、ノート貸して」
と、借りに来る連中を見て、見下した気分にさせられる。一時的な優越感である。だが皆それでいいと思っている。自分の身にならないことでも、人のために役に立って喜ばれるのは、きっとそのうちに実を結ぶとでも思っているのか、修も大学時代にはそう思っていた。その思いは今でも変わっていないが、それは考えすぎる自分の性格ならではなのだろうと思ったからだ。
「素直にその場の喜びを感じるのが、考えすぎなくていい」
と、気持ちに余裕が持てると思ったのだ。
友達は、最初たくさん作ったが、離れていった連中も多かった。元々が、挨拶程度の友達を、本当の友達だと勘違いしていたところもあったが、どうしても考え方が違うと、合わないのも当然である。しかも、修は集団行動が苦手なので、しかも会話が弾まない中での集団は、自分の居場所を見つけることができないのだった。自分の居場所がないことほど辛いものはない。最初はまわりが離れて行ったと思っていたが、結局のところ、修の方から離れて行ったと言った方が正解ではないだろうか。
残った友達は、まわりから、
「変わり者」
と言われている連中で、それでも修にとって話が合うことで安心できた。難しい話をしても、皆が真剣に話を聞いてくれる。真剣に聞いてくれる時も、その表情には笑顔が見えていて、
――これが余裕というものなのかも知れないな――
と感じさせられた最初だったかも知れない。
普段、絶えず頭の中で考えていること、
――他の人には言えないが、この人たちには言える――
ということを話せる連中がいるということが喜びとなり、気持ち的に余裕を持たせてくれることは、ありがたいことだった。
――彼らのような存在を、本当の友達というんだろうな――
と思った。
ただ、親友という感覚とは少し違っていた。修の中で感じている親友とは、
「絶えず一緒にいて、何をするにも一緒にしないと気が済まないこと」
女性に対しては恋人に望むようなことを男性にも望むのが親友だと思っていたのである。しかし彼らとは、お互いの個性を尊重し合って、侵すことのできない領域が確実に存在する。そして、尊敬できるところが自分の考えの中にも存在し、共通性を持っているところがあると思っているのだった。
修は女性との親友関係はありえないと思っていた。女性に対しては「恋人」であるからだ。
修にとっての真の友達というのは、女性との間に存在するかと聞かれると、
「それはない」
と答えるだろう。
――果たして、気持ちに余裕を持つことができるか?
というところが問題になるようで、女性との間では、一旦不安を感じると、それを解消することはできないと思っていたのだ。それが「異性」というものであり、決してそれ以上近づくことのできない距離を持っているものではないだろうか。
もし、女性の中で真の友達に近い人がいるとすれば誰だろうかと考えてみると、今思い浮かぶのはリナだった。彼女とは話をしなくても、分かり合えるところがあった。それは学生時代の友達にも言えたことで、話をするのは、考えていることの確認から始まり、そこから会話に発展性が生まれるのだった。
まりえに対しては、友達というよりも、彼女に近い感覚がある。話をしなくても通じるところもあるだろうが、やはり話をすることでお互いの距離を縮めることができる。それこそが悦びであり、そこから余裕が生まれるのだと信じていた。
まりえと話をしていて感じたことは、
――同じ気持ちを共有はしているが、入り込めない領域を持っていることだ――
という思いだった。
無理にこじ開けようとしてしまうと、そこから亀裂が入るのは必然で、ゆっくり近づいていたものが、一気に壊れてしまうような気がしたからだ。
きっとまりえも修に対して同じことを感じているはずである。そのことが二人の間に存在している以上、二人の関係は不変である。要するにまりえにとっても修にとっても、同じ思いを共有できることになるのだ。
まりえが言っていた、
「自分を知っている人が減ってきている」
という話であるが、修はそのことを考えていた。
自分にも同じような思いがあるからで、自分ではその理屈が分からなかったが、まりえと話をしているうちに分かってきたこともある。
人間の意識には限界があることを、まりえは話してくれた。つまり記憶には限界があるということだ。
意識や記憶には限界があり、それは限界を迎えれば、
「覚えた端から、忘れて行く」
というものだった。
修は最近、自分が忘れっぽい性格になってきたことに気が付いていた。
――そんな歳でもないはずなのに――
と自分に言い聞かせたが、それは年齢による「健忘症」ではない。
健忘症とは、記憶する領域が狭まっていることなのかも知れないと思っていた。年齢によるものなので仕方がないことである。しかし、記憶の領域に限界を感じている人は、明らかに健忘症ではない。意識があるのだから、余計に意識してしまうことで、忘れていくのを防ぐことができなくなってしまうのだ。
自分が忘れっぽくなることで、まわりの人も修を意識することが難しくなるのではないだろうか。
少し話したことがあるだけの人が、次第に忘れていくことはあっても、完全に忘れることはないはずだ。だがそれでも忘れてしまうのは、それだけ相手に気配を感じさせなくなっているのではないか。
たとえば目の見えないコウモリがまわりの存在を知るために超音波を発し、その反射を持って、相手の存在を知るかのような意識に似ている。まったく気配を消してしまえば、記憶から消えてしまうこともあるからである。
――まりえだけではなく、自分にも意識の限界があるのではないだろうか――
忘れっぽくなっただけではなく、修にもまりえが話していたように、自分を知っている人が増えてきたのは確かだった。あまり大きな問題として捉えていなかっただけで、まりえの話を聞いていれば、本当は大きな問題だったのではないかと思うようになっていたのだ。
整理整頓のできないところにも大きな原因があるのかも知れないと思ったが、逆に限界を感じたことで、整理整頓ができなくなってしまったのではないかと思うようにもなっていた。
整理整頓するために、捨てなければいけないものを吟味する中で、限界に達しているものをいかに捨てるものを探すかというのは、困難を極めることであろう。そう思うと、自分の性格がそれほど悲観的なものではないというように感じるようになっていった。
だからといって、放っておいていいというものではない。理屈が分かって来れば、そこから突破口が開けてくるというものではないだろうか。そう思うと、余計に気持ちの余裕に必然性を感じるのだった。