異能性世界
「あんな感じじゃないかしら。ウブな感じがお客さんにもウケるみたいで、あの子ならって少々のミスは大目に見てくれたりするんですよ。店の者としては、ちょっときつく言ったりはしますけどね」
と言って苦笑いをしていた。
――どういうことなのだろう?
奥さんは修の知らないまりえの性格を、本当のまりえの性格だと思っているようだ。
「あっ、ごめんなさい」
ママの言葉通り、まりえは他のお客の前でミスをしたようだ。常連の客なので、
「いいよいいよ」
と、ニコニコ笑いながら、気にしていないようだった。昨日までのまりえからは想像もできない光景だった。
だが、もし修が、今のまりえを最初に知っていたとしたらどうであろうか?
好きにならなかったという気はしない。今のまりえは修の知っているまりえではない。まりえの格好をした、外見だけが同じで中身はまったく違う女性であった。もし今のまりえを昨日までのまりえと同じように好きになるとすれば、修はまりえの容姿や外見だけで好きになったことになる。
いや、修が好きになったのは、外見だけでも性格だけでもなかったはずだ。まりえの顔をした、自分が好きな性格の女の子を好きになったはずなのだ。だからこそ、今のまりえに人一倍の違和感があるのだ。
――まりえの容姿外見があってこその、あの性格なのだ――
そう思っているから、好きになったはずだ。まりえのすべてを好きになったということが本心なのだ。
今日、まりえを見て、最初に感じたことは、
――記憶喪失になったのかな?
と思ったことだった。それは自分を知らないと言ったことがすべてだったが、記憶を失っただけで、性格までが変わってしまうというのもおかしなものだ。しかもまわりが誰もうろたえていない。ということは、記憶喪失ではなく、今のまりえも、まわりにとっては「普段のまりえなのだ」
と思ったのだ。
奥さんに聞いても、さほど驚いているわけではなく、むしろ今のまりえの性格を分析までできている。そう思うと、修の見方が少し違っているのだろう。
今のまりえを好きになろうとしているのは、自分だけが置いて行かれているような気がしたからだ。今のどうしようもなく、やるせない気持ちをどうすれば解消できるかを考えていた。
――まるで鬱状態に陥ったみたいだ――
鬱状態に陥ると、気になっていること以外もすべて、まったく違う世界に飛び込んだ気がする。そして、何が気になっていたのかすら忘れてしまうほど、感覚がマヒしてきていることを思い知らされるのだ。
昨日までのまりえはどこに行ってしまったのだろう?
いや、昨日までではなく、昨日のまりえなのかも知れない。毎日が違う人格になってしまっているのか、急に今日から変わってしまったのか、どちらにしても、感覚的に信じられるものではない。
パラレルワールドという言葉を聞いたことがあった。同じ人間でも、次の瞬間には無限に可能性が秘められていて、今生きている世界は、偶然の産物ではないかとパラレルワールドの話を聞いた時に感じた。
一歩、違った方向に踏み出しただけで、まったく違った世界が広がっている。時間が経つにつれ、それが無限に広がっていくのだ。放射線に広がる世界は、果てしないものなのだろうか。
ひょっとすると、まりえが同じ日を繰り返しているのかも知れないと思ったのは、まんざらおかしな考えでもなかった。ただ、そのことを思ったのが、翌日以降だったのか、それとも最初から分かっていたのか、今から思えばどちらとも言い難いところがあった。
少しおかしな一日だと思って、その日が終わった。
いや、終わったはずだった。
確かに翌日になったはずで、確かに昨日は水曜日で、今日が木曜日のはずだった。
いつものように目覚ましが鳴り、目が覚めた。飛び起きた感覚に覚えがあった。
――あれ?
確かに昨日の飛び起き方に似ていた。それは見ていた夢が同じだったと感じたからだ。「もう少し見ていたい」
と、思っていた楽しい夢だったのだが、相変わらず、目が覚めるとどんな夢を見ていたのか、すっかり忘れてしまっていた。
だが、違うところは、前の日に見た時には完全に忘れていた夢を、今日は少しだけだが記憶に残っていることだった。
楽しい夢だったのだが、それがどのように楽しいものだったのかが思い出せない。それでも、
「もう少しだったのに」
と、目が覚める過程で、思わず寝言のように呟いてしまったのは記憶になるのだ。一体それが何を意味していたのか、目が覚めるにしたがって、大きな問題ではないように感じられた。
目を覚ましていつものように天井を見る。落ちてきそうに感じる錯覚を覚えながら、目は天井を見つめている。これも毎日同じことだった。
――同じことを繰り返している時間も、結構あるんだな――
特に朝、目を覚ました時は、ほとんど毎日変わりのない行動パターンだ。当然、考えていることも同じで、それでも毎日を繰り返していると言う感覚に辿り着くことはない。それだけ毎日を繰り返しているという感覚は突飛なもので、いつも頭の中にあるというものでもない。
顔を洗う時に感じる冷たさ、水しぶきの大きさ、普段は昨日のことなど覚えていないものなのに、今日だけは鮮明に覚えている。まるでついさっきのことのように覚えているのは、同じ日を繰り返しているからだと思い、突飛ではあるが、妙に説得力がある気がするのだ。
同じ日を繰り返しているのであれば、朝の喫茶店でも、昨日と同じことだろう。会話まで同じなのかが疑問だが、まりえがどのような態度を取ってくれるかが、興味深いところだった。
いつもと同じコーヒーの香り、湿気も十分に感じながら、扉を開けると、面子は昨日と同じだった。見たこともない人がいると思ったが、よく見ると、昨日もいたように思えた。ちょうど昨日が初来店だった人だ。
指定席に座り、まりえを見る。
「おはよう」
声を掛けると、
「おはようございます。今日もいつものですね?」
まりえの笑顔は見慣れた笑顔だった。そして、修の「いつもの」、つまりボイルエッグのモーニングセットが出てくることは、その時点でお約束の暗黙の了解だったのだ。
――よかった。いつものまりえだ――
「元気だった?」
修は思わず、懐かしい人に会ったかのような口調になった。昨日のまりえがまったく自分を知らない様子だったことにかなりショックが大きかったのだろう。それだけまりえと会うのが、相当前だったように思えたのだ。
「いやあね。まるでだいぶ会っていなかったみたいな言い方じゃないの。二日ぶりだっけ?」
「あ、ああ、そうだね」
やはり昨日のまりえは、いつものまりえではないのだ。修は続けた。
「昨日は、どうしたんだい?」
「えっ、昨日ですか? 昨日も私はここにいましたよ。修さんとは会った記憶がないんですけど、修さんが来ないなんて珍しいと思ったんですよ」
本当は来ていたことを言おうと、喉まで出かかっている言葉を飲み込んだ。言ってもいいのだが、まりえにしてみれば、まったく知らないことなので、余計な心配を掛けてしまうと思い、余計なことは言わなかった。
「そうなんだね。昨日は、このお店、いつもと違ったかい?」