異能性世界
朝、ボンヤリしているとそのまま睡魔に襲われてしまうこともあり、眠気覚ましに行動を機敏にしているのかも知れない。かくいう修自身も、そういえば比較的早歩きをしているようだ。息が切れているのが自分でも分かっている。朝の時間は一日の汗が身体に沁みついていないだけ、一番機敏に動ける時間だからである。
いつもの喫茶店に到着すると、急に汗が吹き出してきた。最近ではなかったことだが、それだけ緊張が走っているということだろうか。一日の最初に女性を意識するのは、この店でだったからだ。
お気に入りの女の子は、その日も出勤してきていた。今まではなるべく意識しないようにしていた。意識しているのがバレると恥かしいという意識があり、顔もまともに見れないほど、ウブだったのかも知れない。
だが、リナと普通に話ができたことで、彼女に対しても意識する必要はないのだと気が付いた。彼女に対してだけではなく、女の子に対して余計な意識を持つことが、却って相手に警戒心を持たれるかも知れないと思うのだった。
「おはよう」
「おはようございます」
これくらいの会話はいつものことだったが、笑顔で返してくれる彼女に対して、自分がどんな表情になっているかなど、考えたこともなかった。恥かしさから、すぐに顔を背けていたからである。しかし、その日は、笑顔に対して笑顔を返したつもりだった。それでも少しはぎこちなかったかも知れないが、屈託のない彼女の笑顔を見ていると、今度は無意識に顔が綻んでくるのを修は自分でも感じていた。
彼女の名前は「まりえ」という。どんな字を書くのか分からないが、皆から呼ばれている名前に親しみを感じながら、今まで自分から名前で呼んだことは一度もなかった。店には何度も来ている常連なので、すでに自分も名前で呼んでもいいのだろうが、なかなか言えるものでもなかった。彼女は女子大生だというが、自分から見てそれほど年齢が離れているとは感じていないが、女子大生から見ての三十歳は、どれほどの年上に感じているのだろう。自分が大学時代に三十歳の人を見ると、相当年上に感じたものだ。まりえが年上好みなのかどうかも、大きな問題ではないだろうか。
他の常連客は、四十歳代くらいの人が多い。近くにある商店街の店長さんが常連としている喫茶店なので、若い人は少ないが、女性大生から見て四十歳代は年が離れすぎていて、却って男性として意識していないのではないだろうか。そういう意味では三十歳の修としては、年齢的に中途半端なのかも知れない。
まりえの上の名前は知らない。そういえば、話をしたことはあっても、お互いにプライバシーに関しては、一切話したことはなかった。彼女も、修という名前を知っているだけであろう。秋山という苗字で呼ぶ人は誰もいない。この店自体が、名前で呼ぶ習慣があるようだった。
いつもはカウンターの一番奥に座っていたが、その日は、まりえの正面になるようにカウンターの中央に座っていた。
「珍しいですね。そこに座るなんて」
座る席は、暗黙の了解で指定席になっていた。特に朝の時間はほとんどが常連客で、誰に気兼ねすることもない時間である。コーヒーの香りが充満する店内は、クーラーが効いていても、暖かさを感じる。暖かさは湿気を帯びていて、汗が滲んでくるようだが、コーヒーの香りの中では汗が滲むくらいの方が心地いい。そう思っているのは修だけであろうか。
修は、まりえを凝視しつづけたが、まりえは修の視線から目を逸らすような気配はなかった。見つめ合っているというわけではないが、お互いの視線はまわりに不思議な空間を作っているようで、店内に流れているクラシックの音楽すら耳鳴りに聞こえてくるほどだった。
耳鳴りは、湿気を帯びた空気に刺激されて、まるで高原で鼓膜が張って耳が痛くなる時のようだ。
まりえの声がハスキーに聞こえた。だが、低音というわけではない。湿気を帯びた空気の中で、霧の中を彷徨っている時に聞こえる山びこが跳ね返ってくるような響きのある声だった。
耳鳴りがする時というのは、立ちくらみ状態のことが多かった。立っているから立ちくらみを起こすというわけではなく、座っていても、まわりの環境によって立ちくらみ状態を起こすことがある。耳鳴りがする時など、まさにその時だ。
耳が平衡感覚を司っているのだから、当然のことなのかも知れない。耳に刺激が加わると、視界もまともではなくなることが多かった。
立ちくらみ状態の時、最初に感じるのは、呼吸困難だった。少しだけ荒くなった息遣いに、気付いたのか、
「大丈夫ですか?」
と、心配そうにまりえが修の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫だよ。ちょっと湿気の強さで、体調が変わることがあるからね」
「私もなんですよ。特に雨の日とかは、すぐに体調を崩します。頭痛がしたり、身体の節々に痛みを覚えたり、指先に痺れを感じることもありますよ」
「僕も同じようなことになることがありましたよ。貧血気味なんじゃないかって思っていたんですけど、僕だけじゃないのなら、貧血気味というわけではないかも知れませんね」
それでも何とか笑顔を保っていると、最初は心配そうに覗きこんでいたまりえも、笑顔を見せるようになった。
まりえの笑顔には見覚えがあった。以前にも同じような笑顔を見た気がしていたが、あれは学生時代のことだっただろうか。ただ、自分が付き合ったことのある女性の中には、まりえのような笑顔を見せてくれた女性はいなかった。
付き合うことはなかったが、大学時代、ずっと気になっている女の子がいた。彼女には付き合っている人がいるようだったので、声を掛けられなかった。誰か付き合っている人に対して、修は横恋慕しようという気にはならなかったのだ。
他の人から横恋慕されて、付き合っている女の子を奪われてしまう気持ちが分かる気がしたからだ。
大学時代で一番好きだったのが、その人だったのかも知れない。少なくとも一番長い間思い続けたのはその人だったからだ。結局告白できないまま大学を卒業した。彼女に対しては、憧れだったのだ。
あまり笑顔を見せたことのない女性だった。付き合っている男性とはまわりも認める「大人の関係」だったようで、まだまだウブだった修に到底相手ができるわけではなかった。
相手の男と話をしたことがあったが、まるで大人と子供が話をしているようで、尊敬はできるが、友達になれる相手ではなかった。彼と一緒にいるだけで、自分が惨めな思いをする。それが一番耐えられなかったのだ。
大学三年生の時、二人は別れた。普通であれば、
「よし、俺にもチャンスが回ってきたぞ」
と意気込むのだろうが、彼女に対しては、
「手を出すことのできない聖域」
であったのだ。
それでも、彼女は悲しい表情を見せなかった。相手の男も同じことで、その時に修は彼女に対し、
「こんな女だったんだ」
と、初めて失望らしきものを感じた。
「悲しいなら、悲しい表情を浮かべればいいのに……。これじゃあ、可愛げがないじゃないか」
と思った。
相手の男にも同じことを感じ、
「お前たちは本当に愛し合っていたのか?」