短編集27(過去作品)
お人好しな性格は、充実感からもたらされた気がする。考える余裕のないほど充実していたといっても、それは余計なことを考える余裕がなかったということで、普通に考えることが余裕を生むということを教えてくれたのも充実感だった。
充実感は人に与えられたものではない。陸上という自分が見つめた、
――一心不乱に打ち込めるもの――
と思っているものから自然に生まれたものである。だから違和感もない。今まで人に接することを怖がっていた自分がまるでウソのように人に親切にもなれた。
自己犠牲などというのは、そこには存在しない。自分がやりたいことがすべてだった。
――人のためにしたい――
と思ったことなどなくとも、自然と同じ結果になったりしたものだ。
人からありがたがられることも嬉しかった。別に見返りを求めるわけではないが、結果として相手の笑顔が見れれば、それは結果としてハッキリした形になっている。
年末など、何もしなくても気分がウキウキしてくる。まわりに誰もいなくても、街中から流れてくるクリスマスソングやイルミネーションに心が躍るのだ。これこそ無意識な意識といえる。そんな無意識な意識も、きっと充実感があればこそなのだ。そう考えれば陸上をしていた時期が一番自分にとって輝いていた時期だった。
――あのまま陸上を続けられていたら――
考えてはいけないことなのだろう。
夢の中で風を切って走っている自分を感じる。何も考えることなく、後ろに追いかけてくる人を感じてはいるが、目は前にあるテープしか見ていない。
「テープを最初に切るのは俺だ」
思い切り叫んでいるが、声になっていない。夢だということは自分で分かっているからだ。
陸上をやっている時、一度だけ、
――走れなくなったら、どうしよう――
と思ったことがあった。そんな時に、頻繁にテープを切る夢を見た。
次第にテープまでの距離が長くなっていく。最初は五十メートルの感覚だったのが、百メートルになり、そのうちに走り始めは百メートルで、走りきったと思ったその時に、テープはまだはるか先にあるような夢へと変わっていった。
――まるで水の中を走っているようだ――
身体の重さはまさしく抵抗に阻まれるものだ。誰かに邪魔されているわけではない。自分が進まなくなったのだ。
――ああ、これでもう俺は走れなくなるのかな――
漠然と考えていた矢先、交通事故に遭ってしまった。歩いたり普通の生活をする分には何の支障もないくらいに回復したのだが、
「君は陸上選手として走ることはできない」
と医者から宣告された時は、言葉も出なかった。
――これで終わったんだ――
余計なことを言わずただそれだけの宣告はアッサリしていて、それだけに重々しさを感じる。思わずため息をつき、上を見上げるような態度を取ったが、実に自然だった。
以前ドラマで、同じような宣告を受けた人の行動を見たことがあるが、本当に同じ行動を取ってしまった自分を後から思い返し、不思議と笑いがこみ上げてくる。
――人は余裕がなくなると笑い出すというが、本当なんだ――
と思ったものだ。
まるでドラマを見ているようだ。主人公である自分を客観的に見ているもう一人の自分、これこそ夢ではないかと思えてくる。
夢だったら早く覚めてほしいし、その時の気持ちをどう表現すればいいか分からない。何をどう表現しても、きっと自分の気持ちは誰にも伝わらないだろう。そう考えると、今度は無性に寂しくなってきたのだ。
人がいないことへの寂しさではない。孤独感ではあるが、人がまわりにいたとしても、それだけで解消できるものだとはどうしても思えないのだ。却って誰かいれば苦しさはこみ上げてきそうで、いないに越したことがない。
――足が攣った時のようだ――
陸上を始めた最初の頃によく足が攣ったものだ。自分の身体がアスリートに慣れていないこともあるが、身体も使い方も分からずにがむしゃらにするから身体が拒絶反応を起こす。
――絶えず先頭にいて、後ろを気にすることのない人生――
それが当たり前だと思っていた。そこには自分の世界があり、切っている風も、見えている光景も自分にしか味わうことのできないものだ。人が見たいと思っても見ることのできない世界、それを作り上げることがアスリートとしての極みではないだろうか。
まわりが見ていないということは、いいことなのか悪いことなのか、その時は何も考えられなかった。だが、陸上をやめてからすぐは、悪いことだったように思える。他のことはいいことが多かったが、まわりが見えていなかったために損をしていたように思えて仕方がない。
事実陸上の世界しか見えていなかった。陸上をやめてから見えてくる世界、それは他の人と同じ視線で、同じ立場で見ている。見えなかったものがどんどん見えてきて、見たくないものまで見えてくる。
――こんなものまで――
と感じることも多々あったが、見えてくるものすべてが新鮮であった。
女性を女性として意識し始めたのも陸上をやめてから。それまでは、自分に群がってくる女性はいたが、あくまでもファンとしてしか見ていなかった。
「陸上選手が女性にうつつを抜かすなどということはあってはいけないことだ」
コーチからそう教えられて健気にもその言葉を守り続けていた。それだけウブだったとも言える。
陸上をやめることになってすぐのショックは計り知れないものがあった。今となってはそれがどれほどのものだったか思い出すのも困難なくらいだ。
――そういえば、事故に遭う前に、予感めいたものがあったな――
と感じたのは、ショックから立ち直りかけている途中だった。ショックが身体全体を蝕んでいる時期は、考えることが恐ろしく、考えたくないと思っていたが、ついつい余計なことを考えて泥沼の袋小路を作っていた。
しかし、ショックから立ち直る時は、少々のことを考えていても、それが袋小路を形成しないのだ。発想は果てしなく表に向かって伸びているようで、考え方にたくさんの逃げ道があり、
――考えることがこれほど楽しいものか――
と初めて痛感した。
その時に事故に遭う前に感じた、
――走れなくなったらどうしよう――
という思いだったのだ。
それを感じたのは一度だけだったのだが、それ以外にも後から考えれば、前には誰もおらず後ろにいる人たちも意識していなかった自分をどこかから見ている自分に気付いたのだ。
走っている自分は気付かないが、まわりから見ている自分の存在を夢の中で時々見るのである。陸上選手として絶頂を向かえていた頃には、そんなことはまったくなかった。まわりが見えないことは当たり前で、それだけ前を向いてゴールのみを目指すだけだった。それでこそアスリートだと思っていたのである。
「何かよくないことが起こる時というのは、必ず前兆があるんだよ」
ショックから立ち直りかけている時にコーチからそう言われた。
「例えばどんな?」
「今まで見えていなかったものが見えてきたり、些細なことでもいいんだけど、転んでしまう夢を見たりなどもそんなことかも知れないね」
転んだりする夢は見なかったが、夢の中で客観的に走っている自分を見つめていることを話すと、
作品名:短編集27(過去作品) 作家名:森本晃次