短編集27(過去作品)
だが、それぞれの自己満足に対する考え方は違う。度合いが違うといってもいいだろう。何かの目標があるとないでは自己満足の度合いが違ってくる。何か目標を持っての満足感であるならば、それはそれでいいのではないか。そこには充実感という形になるものがあるからだ。漠然と自己満足という言葉を使う場合、充実感を味わえない場合が多い。充実感のない満足感など、却ってイライラが募りそうなものである。三橋の場合、充実感のある自己満足を知っているつもりである。だから、自己満足を肯定するのだ。
三橋は、高校時代陸上をやっていた。アスリートとして全国大会にも出場し、一番自分が輝いていた時期だと思っている。さすがに身体を壊して走れなくなったが、その頃に培ったものは本物だと思っている。
だが、それも最近までのことだった。大学に入り、陸上から離れたことで自由な気分になってしまったのはいいのだが、何しろ遊びというものがどんなものか知らずにいた人間がいきなり大学生という華やかな世界に身を投じたのだ。しかも元陸上で全国大会に出た選手ともなれば女性の注目にもなる。
だが悲しいかな、三橋は硬派であった。いかにも体育会系のような真面目さは、合コンのような場所では浮いてしまう。話題に上ったとしても一瞬で、はしごを使って昇った屋上から、はしごをはずされてしまったような気持ちになる。置き去りにされて置いてけぼりを食らってしまうのだ。
――いつも人より先を走っていて、人の背中など見たこともなかったのに――
何とも皮肉なことである。
まるで背中に目があるかのように、走っていれば後ろの選手がどのあたりにいるかがわかるのも、一つの特技だった。それだけ後ろから迫られると意識してしまうことの裏返しだろうが、アスリートたるものの宿命なのかも知れない。
――いろいろあったが、陸上をやっていてよかった――
合コンで浮いてしまっても、置き去りにされてしまっても、それでも自分にとっての陸上は最高だった。
――自己満足だといって笑いたければ笑えばいいさ――
半分開き直りに近いものがあった。
陸上を始めた頃から、理不尽なことの大嫌いな性格であることに気付いていた。口で説教しながら、表に出れば自分はタバコのポイ捨てをしている父親の姿を見れば、理不尽さを嫌が上にも思いしらされたからだ。
小学生の頃までは、父親というと絶対的な存在だった。父親の言うことに逆らうなどありえないことで、母を見ているとそれは感じていた。
「お父さんに怒られるわよ」
「お父さんが見たらなんていうか……」
など、必ず説教に父親という言葉が出てくるのだ。
父は忙しく、なかなか家で一緒に食事をすることなどなかった。それだけに、父親が本当はどんな人物なのか自分で分からないままに、母親の言葉だけを信じて威厳を感じていた。何と愚かなことだったのだろう。
それからだ。三橋は実際に自分で見たり聞いたり触ったりしたものでないと信じないようになったのは……。
それでも人から言われると、その気になってしまう性格だけは残っている。素直だといえば聞こえはいいが、臆病なところがあるからだ。それは三橋自身自覚していることでもある。
人から言われて臆病になってしまうところが自分で一番嫌なところだった。人の意見をそのまま信じてしまって、悩んでいる時など、ついつい人に意見を求めてしまう弱い面も多々あった。
人によって意見が違うことは分かっているくせに、聞いてしまうのだ。結局自分の中で整理できなくなって、
――自分は人の意見をまともに整理できない性格なんだ――
と卑屈になってしまう。
その裏返しが、自己満足を肯定することになるのかも知れないと考えたりもした。
――長所と短所は紙一重――
というではないか。人の意見を整理できないために悩んだ末に求めたのが自己満足であれば、短所が転じて長所になったとも考えられる。三橋は自らに言い聞かせていた。
その理屈が正しいのかどうか分からない。しかし自分が考えた上での行動であればそれもいいのではないだろうか。人に指摘されてしか動けなかった自分が、自己満足を得たいと思って、一つのことに集中する。
誰に迷惑を掛けるわけでもない。事実陸上を始めてからの見る世界は今までと変わっていた。
疾風のごとく風を切って走る。身体が宙に浮いていかに早く到達するかだけを考える。無駄な動きを一切しないで、駆け抜けることを目的にするのだ。後から考えれば、
――たったそれだけのこと――
と思わないでもないが、すべてのアスリートがそれだけの目的のために、神経をすり減らし、肉体の限界に挑戦しようとしているのだ。大袈裟ではあるが、それを考えると、自分も負けてはいられない。始めたからには勝ちたい。それこそ究極の自己満足というものではないだろうか。
そんな自己満足を他の人は、
「それは自己満足とは言わないんじゃないか?」
というかも知れない。あくまでも自己満足という言葉を悪い意味で使っている人たちのことだ。だが、三橋はこれこそ自己満足だと思っている。いわゆる悪い意味での自己満足というのは存在しないと考えているからだ。
――自己犠牲をしない満足感は、すべてが自己満足だ――
という考えが皆にあるように思えてならない。だから、自己犠牲のない親切は偽善であったり、見た目に美しくない満足感を否定したりするのではないだろうか。
三橋にはそれが信じられない。自己犠牲は確かに美徳ではあるが、自己犠牲などないに越したことがないとどうして皆が思わないのか不思議だった。人に無理強いをしたり、自分の考えを押し付けたりするのは、美徳を重んじ、体裁から何事も入ろうとすることへの伏線の思えてならないのだ。
三橋にはお人好しなところがある。おだてに弱く、人に褒められたりすると、ついその気になってしまうのだ。あまりにも考え方が人とかけ離れているという思いが強いからだろう。そんな時も人の言葉を鵜呑みにしてしまう。
悪いことではないのだが、どうしても褒められると、いい気になって気持ちが大きくなってしまう。時々、大きくなった気持ちのまま発言してしまって、後で後悔するということもあったりした。
だが、生活にバイオリズムというものがあることを信じるようになったのは、自分にとっていいことや悪いことが重なることが多かったからだ。
悪いことが重なるとそれこそ鬱状態に陥ってしまい、何を考えても悪い方にしか考えられない。袋小路を最悪な気持ちの中で作ってしまうのだ。三橋はそんな自分が嫌でたまらなかった。
袋小路に入り込んでしまうのは、小さい頃からあった。しかし、それは悪い方の袋小路ではなく、一つのことを考えると同じところに戻ってくるというものである。子供の頃には経験が少ないため、想像力も知れている。見えない壁にぶち当たり、壁の存在を知ることもなく考えていると、同じところに戻ってくるのも当たり前というものだ。
しかし陸上を始めると、あまり余計なことを考えないようになっていた。それがいいことなのか悪いことなのか分からないが、考える余裕のないほど充実していたと思えば、それはいいことだったに違いない。
作品名:短編集27(過去作品) 作家名:森本晃次