夏橋
しかし広縁の子はくたびれて色が褪せかけたトレーナー、髪は背中まで伸びているが先端は綺麗にそろえられておらずただ伸びっぱなしと言った風情、むしろ自分が子供だった昭和二十年代から三十年代の雰囲気が漂う。
「おやおや? どこの子かな?」
沢田が隣に座って話しかけると、女の子は振り向いたが何も口にしない。
「どこから来たの?」
その問にも答えは口にせずにただまっすぐ前を指差した。
それを額面どおりに受け取れば夏橋の方からと言うことになるが、まだ小さい子供のことだ、「大体あっちの方」と言う程度の意味だろう、そっちには民家が多くある。
(学校は?)と言いかけたが、今は4月に入ったばかり、学校は春休みの時期だ。
そう……この辺りでは子供の姿は良く見かけるが、勝手に人の家の庭に入り込んで広縁に座り込むような子はいないのだ、この子はどうも普通ではない……。
「お母さんは?」
そう問いかけると、女の子はただ首を振った。
いない、と言う意味なのか、それとも叱られて出てきてしまっただけなのか……。
そこまで踏み込むのもためらわれて問を変えた。
「お父さんは?」
「……」
今度は無言で俯いてしまった……正直どうして良いかわからない、気まずい沈黙が流れそうになり、沢田は腰を上げた。
「ジュースを持ってきてあげよう、ちょっと待ってて」
沢田がジュースと自分用のコーヒーを持ってくると、女の子の姿はもうそこにはなかった。
それから一週間も経った頃、女の子は再び現れた。
昨日から子供たちが学校へ行く声がしていたから、もう学校は始まっているはずだ、なのにやって来たという事は……。
「やあ、また来てくれたんだね、でも学校は?」
軽く嗜めるような口調になってしまっていたかもしれない、そう思って少し待つように言いジュースとコーヒーを運んできてやった、甘い菓子も少し。
実はこの一週間というもの、この子の事はかなり気になっていた。
職業柄、謎めいたことには強く反応してしまうのかも知れないが、そうでなくてもどこか懐かしい感じがするこの子がまた来てくれないかなと思っていた事は事実だった。
菓子はショッピングモールでそんなことが頭をよぎって籠に入れたものだし、ジュースも前回は自分の朝食用の100%オレンジジュースだったが、今度は子供が好きそうな甘いものを用意していたのだ。
またいなくなっているのでは? と気が気ではなかったが、広縁に戻ると女の子はちゃんとまだそこにいた。
沢田はほっとして飲み物と菓子を載せた盆を間に置いて広縁に腰掛けた。
「いいの?」
初めて聞く女の子の声だった、幼げな様子からもっと甲高い声を想像していたが、意外と落ち着いた声だ……沢田が頷くと、女の子はジュースを一気に半分ほども飲んでしまい、菓子に手を伸ばした。
改めて見ると、トレーナーの袖は伸びきってめくれ上ってしまっているし、チェックのスカートも腿の辺りが薄汚れている、それどころか顔も少し汚れているようだし、髪にも櫛は入っていない、そしてどことなく川の匂いがしている。
「学校は?」
沢田は女の子が二つ目の菓子を飲み込むのを待ってもう一度同じ問を繰り返した。
「行ってない……」
予想していたとは言えその答えは芳しいものではない。
「お母さんは?」
一週間前と同じ問を繰り返す。
「いないの」
今度はちゃんと答えてくれた、この答えも予想していた通り、母親がいれば顔が汚れたままだったり、髪に櫛を入れていないなどと言う事はないはずだ。
「お父さんは?」
「いるよ」
「二人で暮らしているの?」
女の子は頷いた。
「お家はどこ?」
その問には答える気は無いようだ、その代わりに三つ目の菓子に手を伸ばした。
大体見当はついてきた。
夏橋のたもとでホームレスのテントを見かけたことがある、おそらくはそこの子なのだろう。
女の子は三つ目の菓子をジュースで流し込む、あまり感心したマナーではないが、おそらく甘いものに飢えているのだろう、沢田は盆だけ持って台所に戻ると菓子とジュースのお代わりを持って来てやった。
沢田はコーヒーを飲みながら女の子がそれを平らげて行く様を眺めていて、不憫に思った。 どういう経緯で父親がホームレスに身を落としたのかは知る由もないが、娘を学校にもやらず、こんな格好をさせ、甘いものの一つも食べさせてやらないのは男として、いや人間としてどうなのかと思う……。
菓子とジュースを平らげてしまうと、女の子は少し饒舌になった、気を許してくれたということなのだろう。
「名前は?」
「なつこ」
夏子なのか奈津子なのか、それとも他の字を当てるのかわからないが、音さえわかれば会話には困らない。
「いくつ?」
「十歳」
思ったよりも少し上だ、子供を持った事がないので平均がどれ位なのかはっきりとはわからないが、なつこはかなりやせっぽっちだ、と言う事は……。
「ご飯はちゃんと食べてるの?」
「……うん……」
どうもはっきりしない答え……おそらく充分に食べられてはいないのだろう、腹を空かせることもあるのかもしれない。
「お父さんの事は好き?」
「……わかんない……けど、お父さんがいないと生きて行けないから……」
「お父さんはちゃんと働いていないんだろう?」
「……わかんない……でも時々出かけて行って、ご飯や着る物を持ってきてくれる……」
おそらくは空き缶だのなんだのを拾い集めて売っては僅かの金を手にするのだろう、洋服はゴミ置き場から見つけてくるのではないかと思う、なつこの足元には男児用の青いビーチサンダル、片一方の鼻緒はぼろきれを丸めたもので直してある、拾ってきたものにしか見えないのだ。
どうにかしてやりたいと思う。
しかし、まがりなりにも父親はいて一緒に暮らしているのだ、役場にねじ込めば保護してくれるかも知れないが、父親と引き離されて施設で暮らすことになるかもしれない、だとしたらそれがなつこにとって良い事なのかどうか、沢田には判断できなかった。
その後もなつこはしばしばやって来た。
沢田はその都度菓子やジュースだけでなく、自分の昼食用に用意していた惣菜なども振舞ってやった。
そうしているうちになつこはすっかり懐き、沢田もなつこを孫のように思うようになって行った。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
「先生はいらっしゃいますかの?」
「ああ、これはこれは良くいらっしゃいました」
鶴田地区の長老格がふらりとやって来た。
しばらくは四方山話をしていたが、おそらくはこれが本題だったのだろう、長老は真顔になるとこう言った。
「先生、このところ小さな子が来とりませんかの」
「ええ、ちょくちょく来ていますよ」
「あの子の父親なんじゃが……」
「ホームレス……ではないですか?」
「わかっとりましたか……いや、あの子の事はワシ等も気に掛けてましてな、父親は自分からホームレスになったんじゃからそれはそれで構いませんがの、子供は何とかしてやらねばならんのじゃないかと」
「ええ、私もそう思います」
「何か良い智恵はありませんかの?」