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夏橋

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        『 夏 橋 』

 その橋の正式な名前は田名鶴田橋、「たなつるたはし」と彫られた石版が嵌まっている。
 最初の橋が架けられたのは江戸時代、田名村と鶴田村が協力して架けた橋だったので両方の名を取ってそう名づけられた。
 ただ、「たなつるたはし」と呼ぶのは少々長い、漢字で書いても「田」の字が重なっていてなんとなく不恰好だ、そんなこともあって、その橋はいつしか「なつはし」と呼ばれるようになった、田名の『な』と鶴田の『つ』真ん中の二音を取ったのだ。

 その呼び名には『夏橋』の意味合いもある。
 夏ともなるとその橋は川で遊ぶ子供たちの歓声で彩られ、欄干から川へと飛び込むことは、男の子達にとって一種の通過儀礼ともなっている、たとえ年上でも飛び込む勇気を振り絞れずに逡巡していると飛び込んだ年下の子よりも下に置かれてしまう。
 
 また、一日の仕事を終えた夕暮れ時、橋の上は絶好の夕涼みスポットとなっている。
 遠い山々に沈んで行く美しい夕日を眺めながら川を渡って来る涼しい風に吹かれていると、ここに産まれて良かったとすら思えるのだ。

 当然恋人たちにも人気のスポットになっている、この橋の上でプロポーズされた想い出を持つおかみさんは少なくない。
 そして、夏祭りともなれば、夏橋はクライマックスのステージになる。
 今では合併によって行政区分上は市になっているが、田名、鶴田の地名は残っているし良きライバル関係にあるのは変わらない、それぞれの地区から出発した神輿は夏橋の両端でにらみ合い、橋の真ん中で激突してもみ合うのだ。
 その勇壮な様は、全国区とまでは行かないが県内ではちょっとした名物になっている。
 
▽   ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽
 
 そんな夏橋近くの鶴田地区に、この春新しい住民がやって来た。
 怪奇小説作家の沢田久雄、七十歳だ。
 怪奇小説と言ってもホラーの類ではない、自由に物語を展開するためにすべてフィクションであるとしているので実際の地名等は使わないが、日本各地に残る伝説などにヒントを得た幽玄で湿り気のある作風が特徴、デビューはだいぶ遅かったが最初の十年程で安定した高い評価を受け、続くここ十年でベストセラー作家の仲間入りをしている。
 沢田は東京生まれの東京育ちだが、正直なところ人で溢れ返り、夜も人工の灯りで隅々までくまなく照らし出される東京は性に合わない。
 作家として成功するまではサラリーマンだったので東京に住み続けている必要があったが、できることならば田舎住まいをしたいと言う願望はずっと持っていた、彼の作品はその願望が生み出したという部分も少なからずある。
 そして作家一本で暮らせるようになった今、念願の田舎住まいを実現したのだ。
 
 この辺りは田舎と言ってもあまり不便は無い。
 クルマで10分も走れば広い国道に出る、そこには郊外型の店舗が建ち並び、執筆が忙しい時でも食事に困るような事はない、そしてもう5分も走れば駅前の街に出られる、そこには大型ショッピングモールがあり、食料品や日用雑貨、家電や洋服なども揃う。
 書籍は東京にいた頃からほとんどが通販だったから変わりはない。
 酒は嫌いではないが飲み歩くのは元々あまり好きではなかったし、これといった道楽も無い沢田にとっては充分だ。
 原稿のやり取りなどはメールさえあれば問題ない、それでも月に数回は東京に出なければならないが、クルマを飛ばせば二時間もあれば都心に辿り着くから仕事を続ける上でも支障はない。
 
 沢田が買い求めたのは空き家となっていた農家、造りは典型的な農家だが、土間だった所にはフローリングが張られてLDKに改装され、浴室や洗面も現代的に造り直されていて機能性も良い、いくら田舎暮らしに憧れていたと言ってもかまどで飯を炊いたり薪で風呂を沸かしたりはちょっと出来ないので有り難かった。
 沢田はずっと独身を通してきたので家事も自分でやらなければならないのだ。
 
 暮らしには現代的な部分を取り入れたが、地域の寄り合いには積極的に参加した。
 農業をするわけではないので出席しなければならない理由はないのだが、話し合いの後に酒を飲みながら聞く年寄りの話は興味深い、沢田にとっては小説のヒントにもなるのだ。
 ここに移り住む前に地域の歴史などは一通り調べたが、やはり長くこの地に暮らしてきた年寄りの話は単なる記録に留まらない生々しさを感じるし、通り一遍の記録には記されていない事項も多い。
 
「その通りですじゃ、夏橋は江戸時代に田名と鶴田が力を合わせて架けたものでの、今の橋は四代目になりますかの」
「なるほど、初代から三代目は洪水で?」
「初代と二代目はそうですじゃ、じゃが三代目は昭和三十年頃まで健在じゃった、トラックを通すのに木造では心許ないということになって今の鉄骨の橋に架け直されたのですじゃ」
「三代目の橋はずいぶんと丈夫だったんですね」
「へぇ……」
 そう答えた長老はちょっと顔を伏せて、上目遣いにあたりを見回し、他の年寄りたちは一様に目を伏せた。
(なにかあるな)
 沢田はそう感じたが、この場で根掘り葉掘り聞くのもはばかられるし、そもそも年寄りは皆の前で容易に口を開いてはくれない事を過去の取材から知っている、なに、ここに住んでいるのだからゆっくり聞き出せば良いだけのこと、時間はたっぷりあるのだ。
 沢田はそう考え直して酒盛りに興じることにした。
 
▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽

 それからしばらくして、LDKの一角にしつらえた書斎コーナーでPCに向っていた沢田は、広縁に人の気配を感じて書きかけの原稿をセーブして立ち上がった。
 この辺りでもふらりとやって来て広縁に腰掛けるのは年寄りだけだ、五十代くらいまでの住民は庭先に入り込む事はあっても玄関の呼び鈴を押すのが普通だ。
 だが、座敷に足を運んだ沢田の目に飛び込んで来たのは、ちょこんと座った小さな女の子の後姿だった。
 おそらく足をぶらぶらさせているのだろう、小さな背中が小刻みに揺れているのを見て、沢田は何か楽しい気分になった。
 沢田はサラリーマンをしながら学生時代からの趣味だった創作を続け、三十代位からは作家デビューを目指して幾多の新人賞に応募を続けて来た、その間に交際した女性もいないわけではなかったが創作を優先してしまうあまり婚期を逃してしまい、その結果未だに独身なのだが、子供が嫌いと言うわけではなく、むしろ好きだ。
 広縁で足をぶらぶらさせている子は八歳くらいだろうか、もし普通に結婚して子供を設けていれば丁度これ位の孫がいても不思議ではない。
 それと、その子には郷愁のようなものを感じる。
 東京と違って、この辺りでは男の子も女の子も活動的な服装をしていて、チャラ男やギャルの小型版のような子はいない、それでもトレーナーやTシャツにはスポーツ用品メーカーのロゴや子供に人気のキャラクターがプリントされているのが普通、華美ではないがこざっぱりとしているのだ。
作品名:夏橋 作家名:ST