怒りの交差
しかし、そんな人ほど、
――本当に死を目の前にした時、抑えてきたものが爆発するのではないだろうか?
とも感じられ、その方が人間らしいし、愛着も感じられる。
隆二は自分としては、つかさにはそんな人間らしい女性であってほしいと感じていた。確かに死を目前にして、苦しみもがいている彼女の姿を想像するのは忍びないが、あくまでも同じ人間として感じるなら、
――彼女には決して聖人君子であってほしくない――
と感じたかったのだ。
そして、次に感じたのは、
――つかさには、正直者である必要はないので、自由であってほしい――
という思いだった。
この時に隆二は、
――正直と自由は違う――
と感じた。
ここでいう正直はいい意味ではなく、自由とは正反対という意味で、悪いとは言わないが、決していい意味ではない言葉だと思った。
――生きていたい――
という思いは、正直な思いであり、表に出す正直者というイメージとは違っている。正直な思いこそ、自由な思いから生まれるものであり、逆に自由な思いから、自分の中の正直な思いを思い起こすこともできるであろう。
一般に言われている「正直」という言葉、どこまでが自由と近いものなのか疑問であるが、内面の正直さと表に出ている正直な態度が決して同じものではないということを知っていなければ、最初から自由という言葉と比較することなどできないに違いない。
――つかさに遭ってみたいな――
と感じると、その日からつかさの夢を見るようになった。
夢というのは、潜在意識が見せるものだという発想があるため、夢で見たのは自分の想像の域を出ないのだろうが、目が覚めてもその夢を見ているというのは、隆二の中で、どこかしっくり来ない感覚があった。
――夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れていくものだ――
と考えていた。
そして目が覚めても覚えている夢というものには共通性があって、
――そのほとんどが怖い夢である――
というものであった。
そういう意味では、浦島太郎のお話の全般を主人公の浦島太郎が夢として見ていたのだとすれば、覚えていることは悪夢であり、おじいさんになってから後のことだけがひょっとすると現実だったのかも知れないなどという思いは、突飛すぎるであろうか?
世の中というのは、裏があり表がある。表ばかり見ていても、真実が見えてくるわけではない。また、裏ばかり詮索していても、表を表として認識できるわけではない。浦島太郎の話はそのことを感じさせる。
隆二にとって、つかさという女性の存在は、いったい何だったのだろう?
謎の女
K大学の心理学研究所に、一人の研究員がいた。彼は世の中の女性には、男性にない力があるのだという考えの持ち主だった。彼の名前は伊藤克典といい、K大学では理工学部を卒業したのに、心理学の研究所に入所した。最初は民間企業の薬学研究室に内定が決まっていたが、心理学教授である鷲津教授にどうしてもと言われて、まんざらでもないと思った克典は、せっかくの薬学研究所の内定を断って大学に残り、心理学研究所に入所したのだ。
K大学は国立大学なので、鷲津研究所は国からの補助も受けている。そういう意味では民間企業よりも待遇はいいかも知れない。しかし、大学での専攻とは違う心理学研究所に入所するというのは、一大決心を要するのだ。そういう意味で克典は、思い切ったことをしたと言えるだろう。
ある日克典は、同僚の研究員の一人と、居酒屋で呑んでいた。誘ったのは克典の方で、気心の知れた相手の少ない中で、唯一誘える相手だった。彼は新見という研究員である。
「女性は男性と違って子供を生む力がある。その力を使うと、覚醒するんじゃないかって思うんだ」
と、克典がいうと、
「確かに女性には男性にない子供を生むという機能があるけど、子供を生むと覚醒するというのはどういうことなんだい?」
研究員の一人が聞き返した。
克典は、元々畑違いのところからいわゆる引き抜きでやってきた研究員なので、元からいる他の研究員からは疎まれていた。正直、宙に浮いていると言っても過言ではないだろう。
「いやいや、『女は弱し、されど、母は強し』という言葉もあるだろう。そういう意味で、母になると覚醒すると言ったんだよ。でも、俺は女は弱しの部分も、本当は強いと思うんだ。母だって女じゃないか。つまり、元々強い女が、母になると覚醒して、強いというのはあらわになるんじゃないかって思うんだ」
「なるほど、確かにそうかも知れないね」
新見は克典のことを、ある意味尊敬していた。他の研究員の手前、表立って克典と仲良くはしていないが、薬学を志していたにも関わらず、それを蹴ってまで畑違いの心理学に身を投じるのだから、不安もあったと思っている。その不安を払拭し、入所してきた勇気に敬意を表していたのだ。
しかも、克典は尊敬する鷲津教授が選んだ人である。克典を否定するということは、教授も否定することになる。それはできないことだった。
――それなのに、他の研究員は、どうして伊藤さんと毛嫌いするんだろう?
と思っていた。
他の研究員も教授を尊敬しているから、この研究所にいるはずである。彼が考えたように、彼を否定することは教授をも否定することになるという理屈くらいは分かっているだろう。それなのに、毛嫌いするというのは、やはり彼らも研究員の端くれ、自分たちの中のプライドが許さないのだろう。
心理学というのは、奥が深く、昨日今日で理解できるものではない。
――畑違いの人間に簡単に分かってたまるものか――
という思いがあるに違いない。
新見そんなまわりの連中の気持ちも分かるようになってきた。それだけに彼らを無理に刺激することもしたくはない。そう思うと、表立って克典と仲良くすることは避けないといけないと思っていた。
克典もそのことは分かっているようで、呑みに誘ったのも、大学の表で気さくな気持ちで話ができる場所がほしかったに違いない。
「この店は、俺にとっての隠れ家のような店なので、ここだったら、気兼ねなく思い切り語りあえるよ」
と言ってくれた。
「でも、伊藤さんはどうして、男女の違いにそんなに固執しているんですか?」
と聞くと、
「別に固執しているわけではないんだけど、でも不思議だとは思わない会? 人口はこれだけたくさんいて、人それぞれに性格も違う。まったく同じ人なんて存在しないのに、生理学的には男と女の二種類しかいないんだ。これは人間に限ったことではないけどね。人間に限ったことで言っても、種族だって肌の色でたくさんいる。民族になると、もっとたくさんだ。それなのに、男女の違いは決定的なもので、二種類しかないというのも、俺は不思議に感じるんだよ」
と克典がいうと、新見がそれを聞いて、
「確かにそうかも知れないけど、人種や言葉に関しては、もう少し違った考えもあるんだ。ちょっと宗教的な話になるけどね」
というと、
「キリスト教かい?」