怒りの交差
「僕は浦島太郎の話に疑問を持って、いろいろと本を読んだりして少し勉強したんだけどね。浦島太郎が戻ってきた時代って、いつの設定になっているか知っているかい?」
と聞かれたので、
「うーん。自分の知っている人が誰もいなくなっていたという話だったので、五十年くらいは経っているんじゃないかな?」
と言った。
数十年くらいだろうという意識は、自分としては妥当だと思って、その半分を取って五十年と言ったが、実際にはそんなものではなかったようだ。
「五十年? そんなものじゃないよ。実際には六百年先の話なんだそうだ」
と言われて、少し仰天したが、
「そんなに先の話だって? でも、その六百年という設定はどうしてなんだろうね? どうせなら千年にしてしまった方がいいような気がするんだけど」
というと、
「そうかも知れないね。でも、問題はここではないんだ」
「どういうことだい?」
「そもそも、浦島太郎の話の疑問点というのは、おとぎ話というものへの定義から考えての疑問になるんだよ。おとぎ話というのは、たいていの場合が、何かの教訓を与えるものがほとんどなので、このお話にも教訓が含まれているよね?」
「そうだね。亀を助けた浦島太郎はそのお礼と言われて竜宮城へ来たんだよね。確かにその時は楽しかったけど、帰ってきたら、自分の知っている人は誰もいなくなってしまっている。これは、何かの戒めなんだよね。しかも、乙姫様からもらった玉手箱を開けるとおじいさんになってしまった。これも戒めになるよね。これじゃあ、踏んだり蹴ったりじゃないか」
「まるで正直者がバカを見るという教訓になってしまうよね。これだと児童に対しての教訓にはならないよね」
「これが、浦島太郎のお話への疑問だったんだね」
「そうなんだよ。それで俺は浦島太郎のお話を少し調べてみた。すると、あのお話には先があることが分かったんだ」
「先があったんだ」
確かに考えてみると、玉手箱を開けておじいさんになったというだけでは、あまりにも中途半端すぎる。疑問を誰もが感じるのは、最後のこの中途半端なところが原因なのかも知れない。
「浦島太郎がおじいさんになってから、その後、乙姫様が亀になって竜宮城から陸にやってくるんだ」
「えっ、乙姫様が? どうしてなんだろう?」
と聞くと、
「乙姫様は、浦島太郎を愛してしまっていたようなんだ。だから、浦島太郎を追いかけて亀となって陸に上がり、浦島太郎を見つけて、彼を鶴にしたという話なんだ。鶴と亀というと長寿の化身のような発想でしょう? だから、鶴になった浦島太郎と亀になった乙姫様は、それから永遠に幸せに暮らしたというのが、この話のオチなんだよ」
「そんな謂れがあったんだ」
「そうなんだ。でも、ここにもいろいろな憶測が生まれてくるだろうけどね」
と言われて、隆二は少し考えて、
「確かにそうだよね。乙姫様がどうしてそんな回りくどいことをしたのかだったり、元々浦島太郎を元の世界に戻さずに、竜宮城で永遠に暮らしておけばよかったのにとか考えるよね」
「でも、浦島太郎が元の世界に戻ることは決まっていたんじゃないかな? 理由もなしに、元の世界に返りたいという浦島太郎の意思を妨げるわけにはいかない。洗脳でもしておかなければできないことだよね。もし帰ることを拒んだとすれば、乙姫様に対しての疑念が浮かんでくるはずだからね」
「ということは、元の世界に帰して、現実を見せ付けることで、浦島太郎の気持ちを錯乱させて、そこに乙姫様が現れて、まるで自分が救世主であるかのように振る舞えば、太郎の気持ちをつなぎ止められるとでも思ったんだろうか?」
「もし、そうであれば、かなり人間くさいお話だよね。乙姫様は、自分の都合だけで、浦島太郎の気持ちを弄んだという形になるからだね」
「それは、かなり何とも苦々しい気持ちですよね。児童に対してのおとぎ話の恭順からは程遠いように思えるからね」
と隆二が言うと、
「この話の本当に教訓は、ここにあるわけじゃないんだ」
「じゃあ、どこにあるんですか?」
「元々、明治政府が教科書にこの話を載せる時、どうしようかと考えたらしいんだけど、ラストの乙姫様が亀になってやってきたり、浦島太郎が鶴になるという話はカットされることになったんだけど、それだと、誰もが考えるような亀を助けた浦島太郎が、戒めを受けるという矛盾した教訓が生まれてしまう。でも、この話の教訓の元は、本当は亀を助けた浦島太郎じゃないんだよ」
「どういうことなんですか?」
「このお話の教訓は、『いいことをしたら……』、というところから来ているわけではなく、『いうことをきかなかったら……』というところから来ているんだよ。つまりは、『浦島太郎が開けてはいけないと言われた玉手箱を開けてしまったために、おじいさんになってしまった』というのが、この話の教訓にされてしまったんだ」
「それは明治時代という時代がそういう発想にさせたんだろうか?」
「そのようだね。キチンと言われたことをきかなければ、ひどい目に遭うという戒めがこの話の教訓になってしまったからね」
「でも、最初の亀を助けたというくだりを書かないと、物語が始まらないから、そこはカットできなかったんではないかな?」
「その通りだと思うよ」
ここまでが、その時の友達との会話だった。とにかく小さなことであれ疑問に感じると調べなければ気がすまない友達は、きっとネットで最初に下調べをしておいて、本を探して読んだりしたんだろうと思った。
おとぎ話というのは、すべてがハッピーエンドというわけではない。むしろむごい話の方が多かったりする。ただ、それもきっと児童用のおとぎ話にする時、むごい部分はカットされて教材に使用されたのだろう。ウラシマ太郎に限らずに、その他のお話でも、ラストの部分や教訓に、中途半端さを感じたり、矛盾を感じたりするのもあるのではないかと感じた隆二だった。
隆二は、浦島太郎の話と、それについて友達とした会話を思い出していると、つかさのことが思い出された。
――本当につかさの別荘は竜宮城のような感じだったし、帰ってきてから、時間に対しての感覚がマヒしてしまったのか、変な気分になったよな――
時間に対しての感覚がマヒしたから、浦島太郎の話を思い出したのか、自由という発想を感じたから、そこで出てきた正直という思いから、浦島太郎の話の矛盾を感じたのか、何ともいえない感覚に陥っていた。
つかさのことは普段ではほとんど思い出すことはなくなっていたが、ある時、急につかさへの思いを感じることがあった。
それはまるで、つかさの魂が成仏できずに自分のまわりに潜んでいるかのように感じるからだった。
――でも、つかさは死に対してそれほど恐怖を抱いていたわけではなく、死の直前も死を受け入れる準備が整っていたと思っていたのだが、違ったのだろうか?
つかさのことを思い出すと、最初に感じるのは、
――本当に死を素直に受け入れたのだろうか?
という思いであった。
つかさは、隆二が思うに、本当に正直な気持ちを持った女の子だと思っていた。自分に迫っている死を甘んじて受け入れる姿勢を持っていて、市を目の前にした時も、潔いのではないかと感じていた。