怒りの交差
そんな時、さらに相手を激怒させようと、逆鱗に触れるために、余裕の笑顔を見せつける。
「何だその顔は。なめてんじゃないぞ」
というに違いない。
こっちも、
「いいや、舐めてなんかいませんよ。ただあんたが可哀そうだって思ってね」
と言い返す。
「可哀そうだぁ? お前何様のつもりなんだよ」
と言うだろう。
「いやいや、そのままそのセリフをお返ししましょう」
「何理由分からないこと言ってんだ」
と言って、殴りかかってくるかも知れない。
しかし、そいつのパンチはすでに、自分の身体をすり抜けていた。相手はその不思議な状況に自分の掌を見つめ、あっけにとられている。その時のやつの手からは、地面が透けて見えていたことだろう。
そんなやつの顔を見ながら、さらにやつを興奮させるかのごとく、笑顔を作る。今度の笑顔は完全に余裕を持ったもので、この状況では完全に、立場は逆転している。
「一体、どういうことなんだ? お前、俺に何をしたんだ?」
その声はすでに震えに変わっていて、その表情からは怯えと、助けてほしいというような懇願が表れている。
しかし、まだ自分の状況を信じられない相手は、怯えは隠せないが、懇願に関してはまだ半信半疑だった。
――まだまだだな――
と俺は判断するだろう。
それなので、まだまだ恐怖が足りないと思った隆二は、さらにその男が消えていくスピードを遅くする。
――こいつには、たっぷりと時間を掛けて、苦しんでもらおう――
と考える。
その根拠は、
――この俺に逆らったからだ――
というものであり、自分の想像上でのことは、自分がすべてになるのだ。
隆二は、この男をぶん殴った。
「痛い」
と言って、男はもんどり打って倒れる。そして、さらに不思議な顔をした。
「どうしてお前は殴れるんだ?」
と不思議に思っているその男に、
「お前は次第に消えていってるが、それはまずお前が攻撃できるところからなんだ。お前は俺の思うがままにこの世から消えるんだ。だから、お前からは何もできないが、俺からはやりたい放題なのさ。でも、もちろん、それもお前がこの世から消えるまでさ。それを俺は楽しんでいるということさ」
というと、
「どうしてお前はそんなことをするんだ。俺が何をしたっていうんだ?」
完全に、怯えだけの声のトーンである。
「何をって、お前は俺に因縁吹っ掛けただろう?」
「お前が睨むからさ。どうして俺を睨んだんだ?」
「だって、お前は咥えタバコをしていただろう?」
「たった、それだけ?」
「それだけで十分さ。お前は悪いことをしているって意識がないんだろう?」
「別に法律違反しているわけでもないのに、何で俺がこんな目に遭うんだよ」
「だから言ったろう? 俺に逆らったからだって」
「お前が睨むから……」
と言って、男はハッとしたようだ。堂々巡りを繰り返していることに気付いたのだろう。
「ほらほら、グズグズしていると、この世から消えてしまうぞ」
というと、やっと、
「助けてくれ、死にたくない」
と言って、懇願してきた。
「もう、遅い。それにあんたは法律違反じゃないって言ったが、法律に違反していないければ何をしてもいいという考えがお前の運命を決めたんだ。俺に因縁吹っ掛けたのも、自分が圧倒的に強いので、威嚇すればそれで済むとでも思ったんだろう。自分のストレス解消のつもりが飛んだことになってしまったな」
「そんな、死にたくない」
というので、
「死にたくない? 誰が死ぬと言った? この世から消えてなくなるって言っただけだよ」
「死ぬのと同じじゃないか?」
「そうじゃないんだな。まあいいが」
「じゃあ、死んだ先どこに行くか知ってるんだろう? 教えてくれよ」
「さあ、知らないよ。だから、言ってるだろう。この世から消えてなくなるんだって」
完全に、この男は常軌を逸していて、平常心ではいられなくなっていた。もっとも、それも当然のことである。
隆二は笑っている。その顔は次第に鬼の形相へと変わっていく。
ただ、その鬼というのは、節分の鬼ではなかった。その男が感じた隆二への鬼の形相であるが、
――まるで般若ではないか――
怖いというイメージよりも、どこか美しさがあった。なぜ、消えゆく自分にそんなことを感じるのか、男は分からなかった。
――死にゆくからこそ、この世で分からなかったことが、次第に分かるようになるのかも知れないな――
と感じていると、隆二は想像していた。
自分が抹殺する相手の気持ちも思い図るのは、自分の勝手な妄想の中でも、自分を納得させるための言い訳のようなものなのかも知れない。すべてが自分の思うがままでは、最後には収拾がつかなくなり、自分を納得させることができずに、下手をすると終わることができなくなるかも知れない。隆二はそのように感じたのだ。
「さあ、そろそろ消えていくぞ。どうするんだ?」
「俺が消えたら大問題になるんじゃないのか?」
この男は自分の立場がまだ解っていないのか、急にそんなことを言い出した。
この男が、冷静な男だと少しでも思えば、
――ほう、なかなかいいところをついてくるな――
と思うが、死という言葉を目の前にすると、急に慌てだした。
昔の隆二であれば、少し気の毒に感じ、自分がやっていることであっても、相手に哀れみを感じたものだが、同じ哀れみでも、情けなさを伴った哀れみなので、容赦をする必要などないのだ。
「大問題になんかなるもんか」
「どういうことなんだい? 俺がいなくなったら家族が警察に捜査を依頼するだろうよ。そうすれば、人が一人この世から消えたんだ。大問題になるはずだ」
と言った。
それを聞いて、
「ふっ」
と笑った隆二は、
「バカなやつだと思っていたが、ここまでだとはな。いいか、この世では、人が一人いなくなったくらいで、そんなに大問題になんかなりはしないんでよ。警察に相談に言ったって、どうせ、捜索願を出してくれといわれるだけで、まともな捜査なんかしてはくれないさ。事件性でもあるなら少しは捜査するんだろうが、お前はこの世からキレイになくなってしまうんだ。警察は捜査なんかしないさ。今の世の中、一日にどれだけの人が失踪すると思っているんだい」
本当は隆二にもそんなことは分からなかった。
しかし、怯えているこの男にはそんなことは関係ない。これだけのことを話すだけで十分に恐怖を植えつけることはできる。さらに隆二は続ける。
「それにな。お前がこの世から消えた瞬間に、お前に少しでも関わった人間の記憶から、お前は消えてしまうのさ」
というと、
「なんだって?」
さらにビックリしたようだ。
「だからさっき言っただろう? キレイにこの世からなくなるって・それはお前の運命なんだよ」
「どうしてこんな理不尽なことをするんだ?」
もうこの男は、隆二にどうしてこんな力が備わっているかなどということはどうでもよかった。理屈を知ることで、少しでも相手の心情に語りかけ、何とか許しを乞おうという「お情け頂戴」
の状態に持ち込もうという考えであろう。
そんなことは隆二には百も承知である。