怒りの交差
「いいえ。私もまったく同じことを感じたことがあったんです。そうすると、しばらくの間、時間を意識することがなくて、無事に翌日になることができたんですよ。最初は真剣に、『明日が永遠に来なければどうしよう?』って思ったほどです」
と桜子が言った。
「本当は何かの力が働いているのかも知れませんね。それは外部からの力ではなく、あなたの内面から働いている何かの力です」
「というと?」
「さっき、あなたは、人が目の前で消えたって言ったでしょう? そして、あとになって現れたって。こんな不思議な話は、不思議な力を持っている人でないと実現できないのかも知れません。その時、ちょうど居合わせた人も、皆何らかの力を持っていて、そんな人が集まったから、そんな現象が起こったのかも知れません」
と隆二は言いながら、
――それは俺にも言えることなんだ――
と、自分にも言い聞かせていた。
すると、今のこの空間は、何か見えない力によって、
――作られた空間だ――
と言えるかも知れない。
いくらだれか一人に力があったとしても、いろいろな偶然(?)が重ならない限り、実際には実現しない。
ということは、逆に言うと、そんな不思議な力を持っている人はたくさんいて、ただ、機会に恵まれていないだけだともいえるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、隆二は自分に不思議な力が備わっていたとしても、怖いとは思わない。今までの隆二であれば、
――そんな力なんかいらないから、普通の人間であってほし――
と思ったことだろう。
もし、そうであれば、隆二は臆病な性格であるということになる。
ただ、隆二は臆病なくせに、世の中の理不尽なことや、マナーを守らない連中を人一倍許せないと思っている。
――自分では何もできないくせに――
という意識の中で、ジレンマに苦しんでいたのだ。
だから、本当はそんな力を持っているのであれば、理不尽な連中やマナーを守らない不心得者は、簡単に消すことができるはずだ。それを使えば自分のストレスもなくなり、世の中の役にも立つというものだ。それなのに、その力が備わっているとすれば、そんな自分を怖いと思うのは、それだけ、
――人を消す――
という責任を負うことに恐怖を感じているのだろう。
――どうせ相手はしょせんクズのような連中なんだ。遠慮なんかいるものか――
と思いきればそれでいいのだ。
それなのに、遠慮になるのか、臆病風に吹かれていると言えばいいのか、悩むところである。
それがストレスとは違ったジレンマとなり、次第にストレスの延長というべき、トラウマとなってしまっていたのだろう。
普段から隆二は、まわりの理不尽な連中だったり、マナー違反をしている連中を歯軋りしながら見ていた。気がつけば歯を食いしばっていて、最近では歯の具合が悪くなってしまうほどだった。
目の前で理不尽な行動をしている連中に対しての怒りなのか、それに対して何も言わないまわりの連中に対しての憤りなのか、さらには、そんなまわりの一人である自分に対して情けなく思っているからなのか、よく分からない。そのすべてなのは分かるが、どれが一番強い感情なのかが分からない。
――俺がどうしてこんな気持ちにならなければいけないんだ――
次第に苛立ちが募ってくるようになったが、それを自覚するまでには少し時間がかかるのだった。
最初こそ、理不尽な連中に怒りが集中していた。それは当り前のことであるが、次第にその気持ちがまわりの黙っている連中への憤りに変わってきた。変わってきた時というのは、自分でも意識があった。
――俺はどうして、こんなに苛立っているんだ――
自分一人が苛立っているだけで、他の人は何も思っていないのだろうか?
そんなことはない。きっと、
――苛立っても無駄だからだ――
という諦めの境地に立っているだけではないだろうか。
諦めの境地に立っているからこそ、まわりで理不尽なことが行われていても誰も何も言わない。さらに、理不尽なことをしている相手から被害を受けた人がいて、その人が警察や警備の人に文句をつけているのを見て、冷めた目で見ている。その目は本当に冷徹な目で、
――自分が被害者だったら、どんな気分になるのだろう?
と感じていたが、まったく想像ができなかった。
時には、警備の人に文句を言っている人に対して、
「皆、我慢しているんだ。腹を立てているのはあんただけではない」
と、大衆が被害を受けているのに、被害を受けた連中の誰もが無反応であるにも関わらず、一人が代表して文句を言った時、その人に対しての罵声であった。
その人はあっけにとられて、何も言えなくなったが、隆二は、
――この状態こそ、理不尽だ――
として、まるで、
「理不尽の二次災害」
のように感じた。
しかも、一次災害よりもこちらの方が深刻で、さらに罪深い気がした。
――ひょっとすると、理不尽なできごとが世の中からなくならないのは、こんな二次災害を起こす連中がいるからなんじゃないだろうか?
と思うようになった。
そう思えば、
――本当の悪は最初に理不尽な行動を起こした人間ではなく、まわりの傍観者なのかも知れない――
と感じた。
苛め問題などでもそうである。それが子供の世界の問題でも、大人の問題であっても、苛めっこや苛められている人以外のその他大勢は、ほとんどが傍観者だ。もし、誰かが助けようものなら、苛めの対象が、その助けに入った人に移ってしまうかも知れない。皆はそれを恐れているのだろうが、次第に何もしないことが正義であり、目の前で繰り広げられている苛めは、世の中の節理として考えられているのかも知れない。節理を壊してしまうと、どのようなことになるか分からないというのが、傍観者の理論であろう。
ただ、それはただの言い訳にしかすぎず、そのことを分かっているのは、傍観者一人一人なのかも知れない。逆に苛めている連中や苛められている方には、分からない。だから傍観者はまるで路傍の石にしか見えないのだろう。
全体をみると、その状況こそ理不尽である。だから、隆二は苛めという行動には嫌悪しかなく、苛められている人間、苛めている人間、その他大勢の傍観者という括りで見ていたとしても、それは全体の理不尽の中での一部でしかないのだ。
それでも、自分がその中のどこにいるのかと言われれば、その他大勢でしかない。一番理不尽な中にいるということを認識していることで、自分はジレンマからトラウマになっていったのだろう。
だから、世の中のマナー違反や理不尽な人間を人一倍憎く感じているのは、誰でもない自分だと思っている。いつかは、
――あんな連中、この世から消してやりたい――
と思うようになっていた。
いろいろな想像を頭で考えてみた。
理不尽な連中に対して、必要以上に睨みつけ、やつらの関心をこちらに向ける。
「おい、こら。お前何因縁吹っ掛けているんだよ」
と言って、胸倉でも掴みかけてくるだろう。
本当なら、足がガクガク震えて、声も出ないかも知れない。しかし、ここは自分の想像上の世界。いくらでも勝手な想像ができるのだ。