怒りの交差
そのことを助けてくれた彼女は知らないだろう。何しろ自分の心の中だけで思っていることだからである。だが、その思いを知ってか知らずか、彼女は不思議なことを語り始めた。
「そういえばさっきですね。おかしなことがあったんですよ」
と言い出した。
「おかしなことというのは?」
「今から十分くらい前のことなんですが、目の前で一人の男性が急に消えてしまったんです」
「えっ、どういうことですか?」
頭の中にイメージが湧いてきそうになったことが、この驚きの正体だった。
「目の前にいた人がいきなり忽然と消えたんですが、数人が見ていたはずなのに、一人だけが声を挙げたんです。他の人はあまりのことに声も出なかったんでしょうね。その声というのが『目の前にいた人が、消えてしまった』というものでした」
もちろん、そんなに落ち着いた言い回しではなかったはずで、ろれつも回っていなかったのだろうが、後から説明するには、この言葉が一番ふさわしい。
「消えてしまったってどういうことなんですか?」
「ええ、それ以外に表現のしようがないんですよ。パッと消えたとしかいえないですね」
「あなたは、その場面を見ていたんですか?」
「ええ、私も他の人と同じで、声も出なかったうちの一人なんです」
というが、
――待てよ。少しおかしいんじゃないか?
と思い、その疑問を彼女にぶつけてみた。
「だったら、今この場は騒然としていないとおかしいですよね。警察……、でいいのか分からないけど、どこかに連絡しなければいけないんじゃないですか?」
というと、
「そうなんですよ。我に返った人が警察に通報しようかとしたその時、少し離れたところにその人が現れて、その人は自分が消えたことすら気付かないように、そのまま歩いていったんです」
「現れた瞬間を見たんですか?」
と聞くと、
「いいえ、現れた瞬間を見た人は誰もいないんです。あっと思った時には、少し離れたところから、こっちに向かって歩いていたんですよ」
「私が苦しんでいた時にですか?」
「いいえ、あなたが苦しみだしたのは、その後からです。ちょうどその人があなたの近くまで来た時ですね」
「そうだったんですか」
思い出してみると、咥えタバコをしていたあいつのことだろうか? それ以外にその近くに誰かがこちらに向かって歩いている人はいなかった。
「そういえば、咥えタバコをしている不心得者が、こっちに向かってくるのが見えたような気がしました」
というと、彼女は少し怪訝な表情になって、
「咥えタバコですか? その人はタバコを燻らせていなかったですよ?」
「えっ?」
隆二はビックリした。
――どういうことだ? てっきりあの不心得者だと思ったのに――
と思った。
すると、今度は彼女が思い出したように。
「そういえば、あの人、消える前と現れてから違いがあるのを思い出しました。そうです、あの人は消える前、確かに咥えタバコをしていました。現れてからタバコを咥えていなかったのは、途中でポイ捨てしたんだって勝手に思い込んでしまったからなのかも知れませんね」
と言った。
「僕はあの人が咥えタバコをしてこちらに向かってくるのを確かに感じました。そして、その男が咥えタバコをしているのを見て、嫌悪感を抱いたことで、頭痛がしてきたんだって思ったんですが、頭痛がし始めてから意識がなくなるまで、結構時間がかかったということなんだろうか?」
というと、
「そういうことかも知れませんね。でも、今の時代、咥えタバコなんてしている人はまれですから、本当に目立ちますよね。私もそんな人がいれば、気がつけば睨みつけていることもあるくらいで、でも、相手はほとんど気にしていないんです。相手は自分が悪いことをしているという引け目があるからなんでしょうか。きっと見られたり睨まれたりすることに慣れているのかも知れませんね」
と彼女が言ったが、隆二は少し違う考えもあった。
「慣れというのもあるんでしょうが、本当はびくびくしているのかも知れませんよ。睨まれたら睨み返すだけの勇気のない人というのも結構いますからね。でも、中には開き直って因縁を吹っかけてくるやつもいる。いわゆる逆ギレというやつなんでしょうが、そんな一部のやつがいるから、余計に咥えタバコをしているやつはそんな連中ばかりだと思ってしまうんですよね」
というと、
「それが、ひいては愛煙家すべてにいえることになってしまうですよ。きっと愛煙家の人も一部の不心得者に対して怒りを感じていることでしょうね。ひょっとすると、嫌煙家よりも余計に怒り心頭なのかも知れません」
「その通りだと思います。これはタバコに限らず、マナーを守れない人すべてにいえることですよね。たとえば、携帯電話だったりスマホだったり、あるいは自転車に乗っている連中の中にもロクな人がいなかったりします」
隆二は、相手が普通の人ならここまでは言わないが、彼女も自分と同じようにマナーを守れない人の理不尽さにいい加減ウンザリしていると思っている。だから、この時とばかりにイライラをぶつけ合うというのも悪いことではない。友達という定義の中には、同じようにストレスの解消を受け持ってくれる相手がいてもいいと、隆二はかねがね思っていた。
二人して、理不尽な人間に不満を漏らしていると、お互いに気心が知れてきたのか、彼女も次第に自分のことを話し始める。
「私は桜子って言います。実は、時々おかしな感覚に見舞われることがあるんですよ。誰も信じてくれないので、誰にも話をしていませんが、あなたになら話せるような気がします」
と言った。
「僕の名前は隆二といいます。僕も時々不思議な感覚に見舞われることがあるんですが、あとで聞いてもらいましょう」
と隆二がいうと、桜子はおもむろに話し始めた。
「私、一日の終わりが分からなくなることがあるんです」
「えっ?」
「午前零時を過ぎると、普通なら翌日になっていますよね? 何の意識もないのに、一日をまたいでいるんですよ。でも、たまにですが、午前零時を過ぎた瞬間に、『午前零時を過ぎた』と身体が感じるんです。でも、『次の日になったんだ』とは思えないんです。そんな時時計を見ると、時間はまたいでいるんですが、日付は変わっていないんですよ。それで怖くなってテレビをつけると、日付が午前零時より前と同じだったりするんです」
「夢みたいなお話ですね」
「ええ、それであとから何度も考えたんですが、きっと日付をまたぐには、自分が時間に関して無意識にならないとまたぐことができないんだってですね。だから急に時間を意識してしまった時、午前零時を感じてしまい、明日になることができなくなってしまったんです」
「そうなんですね。その話を聞いていると、僕にはまるであなたが、最初は翌日になったのに、急に逆にタイムスリップして、一日前に戻ってしまったのではないかって想像してしまったんですが、ちょっと奇抜すぎますかね?」
と隆二がいうと、