怒りの交差
元々、教授に賛同して、鷲津研究所に入ってきたのだ。研究内容の細かいところは分からないが、最初の頃はよく二人で話をしていた。たまに喧嘩になることもあったくらいで、それだけお互いに研究に関して貪欲で、自己主張が強いのだろう。
新見はもちろんのこと、教授の方もそんな新見に対して、一目置いているところがあった。
最近の新見は、男女の違いについて研究していた。
ある日、研究所の仕事が終わって一緒になってから、その日は酒を呑むことはなく、研究所の近くの喫茶店で、研究の話に講じていた。
「大体、世の中というのは、大きく分けると、男と女しかいないんだ。それは人間だけに限ったことではない。他の動物、さらには植物だって、男と女に分けることができる」
と新見がいうと、
「確かにそうだ。植物などは、一つの身体に男と女の両性が共存しているからね。そういう意味では、男と女が存在していると言ってもいいだろう」
言わずと知れた、おしべとめしべのことを言ったのだ。
「男と女がいるから、生殖が行われ、子孫繁栄が行われるのさ。これほど自然の神秘と言えることはないんじゃないか?」
と新見がいうと、
「種の保存と言われるけど、男女の生殖が世の中の生態系の基本ではあるよね。でも、世の中の生態系というのは、ハッキリ言って美しいものではないと俺は思うんだ」
と克典が答えた。
「なるほど、君の言うことは分かる気がする」
新見にも生態系に対して、思うところがあるのだろう。克典が何を言いたいのか、分かっているようだった。
「弱肉強食と言われるけど、まさしくその通りなんだよね。弱い者は、強い者に食われてしまう。それが世の中の生態系なんだよね」
「その通りだよ。でもね、それだって回りまわって自分に帰ってくるから、生態系というのは保たれているんだ。要するに、すべての生物に絶対的な命は存在しないということだよ」
新見の言っていることも間違っていない。克典もその話を聞いて、何度も何度も頷いていた。
しかし、その頷きは無意識のもので、後で指摘されると、
「えっ、あの時、俺は頷いていたのか?」
と、答えるに違いない。
何を考えているのか時々分からなくなるのが克典だったのだ。
「土に帰る、って言われたりするけど、そういうことなのかな?」
と克典がいうと、
「そういうことさ。動物は死んで、土に帰る。そうすると、土に栄養が行き渡り、それが植物を育てるのさ。その植物を動物が食する。草食動物だね。そんな彼らを肉食動物が食っていく。そして、肉食動物である獣を人間が捕らえて、調理して食べるのさ。そう思うと、最終は人間や、肉食動物なんだろうけど、始まりは、彼らの死からなんだ」
生態系の話から、少し脱線してしまったようだ。元々の話は、
「世の中を大きく分けると、男と女に分かれる」
というところから始まっていたはずだ。
「男と女の話になると、どうしても人間界では、タブーの話になってしまうんだけど、どうしてなんだろうね?」
と克典が言った。
「詳しい原点は分からないけど、時代的に考えると、旧約聖書の時代から、すでに男女が最初に生まれたことを示していて、そこには禁断の果実が存在したり、いちじくの葉で、生殖器を隠したりという表現がなされている。これはすでにその時代から、男女の存在がタブーであるということを示している。いや、聖書というのは、元々戒めの意味で書かれた物語だったりするだろう? たとえば、民族が分かれたり、言葉が民族ごとに通じなかったりするのは、バベルの塔を作った王が、天に対して弓矢を射ったことで神様が怒り、言葉を通じないようにして、民族を世界各国に散らばらせたところから始まっているだろう。それが本当のことなのか、それとも、民族が世界に散らばって、言語が複数存在しているという事実から、想像しての話を後から作ったのかも知れない。いわゆる辻褄合わせのような話なんだろうね」
新見のこの意見には、克典も賛成だった。
「民族が分裂したという話は分かるけど、男女が最初から存在していて、どうして男女だけなのかということには触れていない。それは、本当に創造の神というものがいて、男女の創造は理屈ではないということなのか、それとも、民族分裂のようにその理由を想像しようとしたけど、できなかったというだけのことなのか、難しいところだよね」
と克典がいうと、
「ひょっとすると、人間も最初は植物のように、一つの身体に、男女が同居していたのかも知れないな。それは進化の過程で、元々は植物から始まり、獣になって、それがさらに進化して、人間になったと思えば、考えられないこともない」
「ただ、そういうことになると、気の遠くなるような果てしない時間を要する話にはなるね」
「それはそうだ。地球の歴史から考えると、人間が出現してからの時代なんていうのは、本当につい最近のことだと言ってもいいんだろうからね」
二人は、少し黙り込んで考えてみた。
「人間が進化すれば、どんな動物になるんだろうね?」
ボソッと、克典が言った。
「想像するのが難しいだろうね。何しろ俺たちが、『人間こそ、最高の高等生物なんだ』というように小さい頃から教えられてきたので、そのイメージが当然のこととして凝り固まっている。それを解くのは、かなり柔軟な考えを持たなければ難しいだろうね」
と新見がいうと、
「イメージというのは、人それぞれなんだ。当然それが個性であり、個性というのは、人間特有の性質だと思いがちだけど、本当にそうなんだろうか?」
と克典も答えた。
「だから、人間には思考能力があり、その思いは、『この能力は人間だけに与えられている』という思いの元でもある。人間としてのプライドなんだろうけど、せっかくそんなプライドがあるのに、人間は、そのプライドを個人に押し込んでしまって、それを個性だと思い込んでいる。だから、紛争が起こったり、身分の違いが発生し、支配階級と、支配される階級に分かれて、戦争の火種になる。人間だけだよね。私利私欲のために殺しあうのは」
新見は、かなり人間に対して嫌悪を抱いているようだった。それは自己嫌悪ではなく、人間という動物に対しての嫌悪だ。だから、まわりからはあまり好かれているわけではない。彼の考えは無意識に表に出てくるものなのだろう。
「自分が相手を嫌いなら、相手も自分のことを嫌いになるものさ。自分が相手を嫌いだという感覚は、相手にも伝わるものだからね」
こんな話は、心理学以前の問題として、学生時代から友達の間でよく言われていた。克典も自分が人間嫌いだと思っていたので、その話には少なからずの意識として残った。
新見の学生時代というと、結構友達がたくさんいたようだった。ただ、それは表面上の友達だけで、どちらかというと、
――ナンパをするための仲間――
という程度だった。
高校時代までは、暗い人生を歩んでいた。実際に友達もあまりおらず、ただ、同級生が女の子と連れ添って歩いているのを、羨ましく眺めているだけだった。
いわゆる、
――指を咥えて――
と言えばちょうどいいだろう。