怒りの交差
錯覚と思えば、その場から開放されたかも知れない。しかし、そう思えなかったのは、その場の空気が何なのか、ハッキリさせたいという思いがあったからだった。
――こんなことを考えるのも、自分が真面目な性格だからなのかも知れないな――
心理学の研究員らしく、もう少し捩れた発想をしてもいいはずなのに、こんな発想しかできない自分を複雑に感じた。
――真面目と思われるよりも、研究員らしくありたい――
それがいつもの克典の意識だったからだ。
「こんばんは」
シーンと静まり返った店内に、乾いたような声が響いた。
乾いたように聞こえたのは、その声がどこから発せられたものなのか分からなかったからだ。その声には確かに和音が存在し、高音部分と低音部分が脈打っているように感じられた。
二人が振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。ニコッと笑ったその笑顔に、妖艶さを感じたのは、克典だけではなかった。
「やあ、ともみちゃん、待っていたよ」
とマスターが気軽に声を掛けたその相手は、待ち望んでいたさっき話題に上がったともみという女性のようだ。
妖艶に感じられたことで、二人は彼女から少しの間、目を離すことができなかった。それは、自分の意志で目が離せなくなったわけではなく、ともみという女性の魔力によって目が離せなかったのだ。そこに女性としての魅力を感じたわけではなく、
――普段なら決して意識することはないはずの女性――
として写っている彼女の姿は、妖艶さという言葉の意義を根本から考え直さなければいけないような気がした。
「マスター、待っててくれたのね。ありがとう」
というともみの言葉に、
――なんだ、この感覚は?
と、新見と克典の二人ほぼ同時に感じたようだったが、もちろん、お互いのそんなことを分かるはずもない。
ただ、この感覚を看破した人が一人だけいた。それはマスターだった。
――やはり、ともみという女性には、何か不思議な力が備わっているんだ――
と感じていた。
しかし、何か不思議な力だとは思っても、それがどのような種類のものなのかまでは分からなかった。そういう意味で、
――ともみを新見に会わせたい――
と思っていたが、今までに実現したことがなかった。
マスターはこの時には気付かなかったが、ともみと誰かを会わせたいと思うと、その相手に誰か友達か仲間がいなければいけないのだった。
ともみが次に来る日を最初から予告していることはほとんどまれだった。それだけに、今日新見がこの店に現れたのを見た時、マスターは心の中で、してやったりだと思ったことだろう。
しかも、今まで新見はこの店に誰か連れを連れてきたことなどなかったことだった。それも初めてだったことに、
――今日は、初めてづくしだよな――
とマスターは一人ごちた。
そんなマスターの思いを知ってか知らず科、二人の研究員は不思議な空気を共有しているようだった。
――この人の声、一人が喋っているようには聞こえない――
と感じたのは、克典だった。
――低音部分が目立つ時と、高音部分が目立つ時が、一つのセンテンスで複数あるなんて――
と、感じたのは、新見だった。
それぞれで考えていることにさほどの差はなかったが、先を進んでいるのは、新見のようだった。
――俺の前を歩いていて、なかなか追いつくことができないー―
先を進んでいる相手を、克典は意識していた。
先を歩く新見の姿を感じた時、克典は高校時代に読んだオカルト小説を思い出した。
その話は、自分が歩く十分前を、もう一人の自分が歩いているという話で、絶対に見ることのできない自分だった。他の人からは、
「おや、戻ってきたんだね?」
と言われても、初めてきたので、
「いや、今日初めてきたんだよ」
と言っても、
「またまたご冗談を」
と笑い飛ばされて終わるのだ。
誰もまともに聞いてくれない現状に、主人公は否定することをやめてしまった。それは前を歩いている自分に対してのことだけではなく、すべての否定を自分で拒否するようになったのだ。
――どうせ何を言っても誰も信じてくれない――
人生を半分あきらめたような感覚に、まわりの人は変わってしまったはずの彼を理解できていなかった。
なぜなら、十分前を歩く自分が、すべてやってしまうからだった。
そのうちに主人公は何もやる気がなくなり、夢も希望もなくなってしまった。しかし、望みはすべてかなっているのである。
――どうせなら、望みなんかかなわない方がいいんだ――
と感じた。
主人公のストレスは極度に膨れ上がっていた。それでも彼のことを分かってくれる人は現れない。それがさらに彼のストレスを深めるのだ。
だが、本当は彼のことを分かってくれている人が一人だけいた。それは彼の幼馴染の女の子で、彼女も彼の苦しみを分かっていながら、自分では何もできないというジレンマを抱えていることで苦しんでいた。
しかし、実は彼女にももう一人の自分がいて、もう一人の彼女が十分前の主人公を演出していた。つまり、姿形や素振りなところは主人公なのだが、性格や考え方は、主人公を分かっている彼女の「分身」だったのだ。
そのことに気付かない間は、十分前の自分に苦しめられる主人公。しかし、それが分かる時が来た。それが彼女を襲った突然の交通事故だった。
彼女は、即死だった。主人公の苦しみは極度に達し、どうしていいのか分からなくなっていたが、その頃から、十分前の自分がいなくなっていた。彼は普通の人間に戻ったのだ。
彼は苦しみから救われたはずだった。だが、それから半月もしないうちに、彼の死体が発見された。
自殺だったという。
他の人は、仲が良かった彼女の後を追ったとしか考えられないと思っていたようだが、実際には違っていた。彼は自分の意志で死を選んだのだ。
それが彼に残された最後の「自由」だった。十分前を歩いている自分、本当はそれが本当の自分だったのだ。彼女が亡くなったことで、十分前の自分の存在がなくなった。今の本当の自分だと思っていた主人公は、その時初めて自分が本当の自分の存在が消えてしまったことを悟った。
彼には死の恐怖などなかった。最後にそのことを書いて、小説は終幕を迎えた。
――分かったような分からないような――
と思ったが、小説の内容は、頭に残ってしまった。
たまに夢に見ることもあるくらいで、その時に前を歩いているのが誰なのか、克典には想像もつかなかった。
今、新見と一緒に来たバーで、前を歩いている新見の姿を感じることができた。夢とリンクした瞬間だった。
今までに感じていた新見に対してのイメージは、絶えず自分の横にいるというイメージだった。先に進もうとすればできなくはないが、新見に自分の後ろに回られることを恐れていたのだ。かと言って、新見の背中を見るのは嫌だった。それは、研究員としてのプライドであり、親友としては、後ろに回られるのを怖いと感じ、ライバルとしては、相手の背中を見るのは自分のプライドが許さなかったのだ。