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怒りの交差

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 異臭というほどきついものではなかったが、息苦しさを証明するかのような匂いに、思わず嘔吐を催しそうになったのを、必死に堪えた。
 隣を見ると、新見にはそんな感覚はないのか、顔からはホッとしたような雰囲気しか見えなかった。その表情を見ると不思議なことに今感じた息苦しさは消えていた。ただ、何となく嫌な感じのする匂いだけは、鼻につくように残っていたのだ。
 マスターと話をしている時、最初にそんな違和感があったのを忘れていたが、話が終わると、また匂いのきつさを感じないわけにはいかないほど、意識してしまっていた。
 匂いの正体は何だか分からないが、何かに似ていると思っていたのが何なのか分かった気がした。
――そうだ。石の匂いだ――
 子供の頃に、木に登っていて、枝が折れて、背中から後ろに落ちたことがあった。別に頭などを打つことはなかったのだが、運悪く、落ちたその場所に小石があった。
「うっ」
 と言ったかどうか分からないが、自分では声を発したような気がしていた。
 しかし、その声が出るはずがないほど、その時呼吸困難に陥ってしまったのだ。目の前が一瞬真っ暗になった気がしたが、実際には真っ赤だった。まるで毛細血管を見ているようにクモの巣のように張られた血管が、目の前を覆っていた。真っ赤に見えたのは、その血管の集合体だったのだ。
――俺はこのまま気を失ってしまうんだろうか?
 と感じたが、なかなか気を失ってくれない。
 こんなに苦しいのであれば、気を失った方がなんぼか楽だと思ったのも、間違いではなかった。
 だが、そのうちに気を失っていたのだろう。気がつけば、まわりに人がたくさん集まってきていて、気を失った自分を助けようとしてくれていたのだ。
「よかった、目を覚ましたようだ」
 と一人がいうと、まわりには安堵の声が漏れ、
――俺は助かったんだ――
 と感じた。
 あとから思えば、死んでしまうほどの大げさなものではなかったのだが、生まれて初めて気を失ったのだ。
――目が覚めてよかった――
 と感じたのも、無理もないことだったに違いない。
 これもあとから聞いたことだが、
「気を失っていたのは、本当に数秒のことだったんだよ」
 ということだった。
 本人は気を失っていたので、どれほどの時間なのか分からなかったが、気を失っている間に、何か夢のようなものを見た気がしていた。
――夢なんか見れる時間はなかったはずなのに――
 と感じた。
 夢の内容も覚えていない。長さがどれほどのものだったのかは分からないが、ただ、数秒だったということはないと思う。
 これはかなり経ってからのことであるが、夢について誰かと話をした時、
「夢というのは、目が覚める寸前の数秒で見るものらしいよ」
 と言われたことがあった。
「そんなことはないだろう。あれだけ濃いと思っている夢なんだ。眠りに就いてから目が覚めるまで目一杯見ていたような機がするんだけどな」
 というと、
「それは錯覚さ。実際に夢の内容なんて幅が広すぎて、一晩で見れるものではないだろう? しかも夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れていくものが圧倒的に多いんだ。それを考えると、夢の世界と眠っている自分の世界とではどこかに境界のようなものがあって、交わることはないんじゃないかな?」
 というので、
「じゃあ、それは境界ではなく、結界なのかも知れないな」
 と答えると、相手は嬉しそうに、
「そうそう、俺が言いたいのはそういうことなんだ」
 と答えた。
 その時から、夢に対しての自分なりのビジョンを感じることができた気がしてきた。しれはきっと、子供の頃に背中から落ちたあの時に出来上がった感覚なんだろうと思うのだった。
 話は少し逸れたが、バーに入った時に感じた石の匂い、それは、木から落ちた時、背中に当たった石で息ができなくなったときに感じたあの匂いと同じだったのを思い出したのだ。
 さらに、
――もう一つ、同じような感覚になったことがあるんだけどな――
 すぐには思い出せなかったが、しばらくすると思い出すことができた。
 それは、バーの室内で感じた湿気からだったのだが、石の匂いというのは、雨が降り出す前に時々感じる匂いだった。
 いつの頃からだったろうか、克典には、
――雨が降る前兆のようなものが分かる時がある――
 と思うようになった。
 それは、匂いを感じる時であった。まるで石のような匂いを感じると思っていたのだが、その思いはどうやら克典だけではなかったようだ。
 天気に詳しいやつが話をしていたのを聞いたことがあったが、その話の内容としては、
「俺は雨が降る前に石の匂いを感じるんだ」
「それはどういうこと?」
 ともう一人の人が聞くと、
「少し大雑把ではあるけど、雨というのは。地表から水蒸気が湧き上がって雲になったものが降らせるものだろう? その時に、地表の埃も一緒に舞い上げるんだ。その埃の匂いを感じて、もうすぐ雨が降るって感じるんだ。それに湿気も一緒に感じるはずなので、雨が降るのを予想するのは、そんなに難しいことではないと思うよ」
 と言っていた。
 克典は、その話を聞いて、
――うんうん、もっともだ――
 と感じた。
 その頃から、雨と石の匂いの関連性について、疑う気持ちはなくなっていたのだ。
 バーの中で感じた石の匂いは、雨を予感させるもので、息苦しさは、子供の頃に背中から落ちた時の苦しみを思い出させるものだった、そう思うと、
――先に感じたのは、石の匂いで、そして石の匂いを感じたことで息苦しくなったんだ――
 という意識を持った。
 その意識にたぶん間違いはないだろう。しかし、どこか釈然としないところがある。天気予報では雨の予報もなかったし、店に入ったあとから思い出しても、表は雨を降らせるような湿気があったわけではない。さらに店に入ってから少しだけ感じた湿気だったが、それも次第になくなってきた。きっと冷たい表から暖かい部屋に入ってきたことで、湿気を感じてしまったのではないかと思うのだった。
 それを後押ししたのが息苦しさだったのかも知れない。
――匂いから息苦しさを感じたと思ったが、実際は逆だったのではないか?
 という思いもあとから感じられた。
 実際に子供の頃に背中から落ちた時は、息苦しさから石の匂いを感じたのだ。逆であるはずはない。そう思うと、今回も息苦しさが石の匂いを招いたと考えた方が自然だった。もし、そうでなければ、息苦しさと石の匂いとの因果関係はなくなってしまい、一連の流れで感じたことの辻褄が合わなくなってしまうと思ったのだ。
 しかし、そのどちらも椅子に座って落ち着いてからは感じることはなくなった。会話を始める前の一瞬の出来事だったはずなのに、あとから思い出すといろいろ考えられるというのが不思議だった。やはり、この店には最初から何か異様な雰囲気を感じていた証拠なのかも知れない。
作品名:怒りの交差 作家名:森本晃次