短編集26(過去作品)
川原から先その日は一緒の宿に泊まったが、男女の関係にならなかった。
――なぜだろう?
自然に身を任せるのであれば、必ず抱いていたような雰囲気だった。むしろ感情よりも身体の方が関係を拒んだのかも知れないという気がするほどで、今までの自分では信じられない。いや、これからもそんなことはないだろう。感情に身体がついてこないなど、想像もできないことだ。
帰ってきてからすぐに鈴子に連絡を取った。近くに住んでいることを聞いたのは二日目だった。最初の日に聞いてもよかったのだろうが、わざと二日目にしたような気がする。最初の日に聞いていれば、二日目から彼女と一緒にいることがないという、おかしな錯覚があった。
「ハクション!」
静かな室内に響き渡った。
一緒に行った白壁のおしゃれな喫茶店、店内にはクラシックが流れていて、机や内装は表とは対照的に黒を基調としているユニークな造りである。
「ああ、大丈夫だよ。時々くしゃみが出るんだ。風邪でもないのに……」
「誰かが噂しているんじゃない?」
そう言って笑っているが、その表情は何もかも分かっていると言いたげな含み笑いに見えた。
――何もかも知っているといって、何も隠し事などないのに――
冴子の話もしていた。自分で感じたことをそのまま話しただけなので、きっと男性からの偏見も入っていたことだろう。それでも嫌な顔一つせずに聞いてくれる鈴子を見て、
――言い過ぎたかな?
と感じるが、捲くし立てるように話す誠司がそのことを思うのは、ある程度話した後である。
それでも気まずい雰囲気になることもなく喫茶店でのひと時を過ごす。喫茶店での時間が鈴子との、そしてその頃の一番素敵な時間に思えてならなかった。
――余裕を感じる時間――
ずっと求めていた時間である。
旅行から帰ってきて、ここまで誘うのには苦労はなかった。それだけ旅行先での気がお互いに合っていた証拠だろう。
会話が噛み合っていたようにも思えなかった。時々、虚空を見つめたように何かを呟くようにしていた鈴子だったが、知り合ってすぐだったので、理由が分かるはずもなく、また詮索するわけにもいかなかった。
失恋でもしたのだろうか?
その程度の貧困でありふれた発想しかできない。抱きたいと思いながらも最後まで踏み切れなかったのは、そんな雰囲気が見え隠れしていたからだ。
ウサギの話をした時の鈴子が一番虚空を見つめていたように思う。焦点が定まっていなくて、あらぬ方向を見つめていた。声を掛けられる雰囲気ではない。つい茶化してしまったが、後悔したものだ。
声を掛けてきた時の鈴子が一番魅力的だった。上目遣いで少し妖艶な雰囲気もあったが、それは後から考えて思うもので、最初はあどけなさでいっぱいだったように見えた。
鈴子への第一印象は冴子への第一印象に似ていたように思う。もし鈴子から声を掛けられなければ、逆に自分から声を掛けていたかも知れない。別れることになったが、冴子に声を掛けたことを後悔したことは一度もない。だが、冴子と別れてから、冴子に感じたような思いを他の女性に感じることはなかった。少なくとも近くにいる女性にはない。旅先だから気持ちが大きくなり、鈴子に冴子と同じものを感じたのだろうか?
しかし、一緒にいると冴子とはまったく違う女性であることが分かってきた。当たり前のことなのだが、最初分からなかったのは、相手から声を掛けてきたという自分にとって意表をつかれたこと、そしてあまりにも冴子という女性の存在が、自分の中で大きかったことを思い知らされたことだったためだろう。
今、目の前にいる鈴子は従順である。すべてを話したくなるような女性であり、そのくせ彼女の過去は自分から話そうとはしない。他人が見れば暗い女性に見えるはずだ。明らかに人見知りするタイプで、自分が気に入った相手にしか心を開かないところがある。誤解を受けやすいように見え、人見知りすることで、さらに悪循環を呼んでいる。
失恋していた誠司に、彼女の従順さは何よりの癒しになった。すべてを分かっていてくれているので、飾ることもない。普段他人には紳士なのだが、鈴子の前では甘えられる鈴子も甘えてくる男性がお気に入りなのか、おねえさん的なところを示してくれる。だが、基本的には三くだり半、実に従順である。
たまに言うわがまま、実に嬉しい。付き合い始めて半年が経った時でも、あっという間だった。冴子と付き合っていた時は、半年と言えば、喧嘩が絶えなかった頃だろう。いったい毎日、何を考えて生活していたのか、ハッキリと覚えていない。
鈴子との付き合いはそれから比べれば、波風など一切ない。何も考えていないように思えるが実はいろいろ考えている、小さい頃から考え事をするのが習慣となっていた誠司にとって、冴子と付き合っている一時期は空白だったのかも知れない。
――何も考えられない時期――
そんなものが存在したのだ。
だが鈴子と知り合って、余裕を感じるようになる。気持ちの中に一筋の気持ちいい風が吹いてきたかと思うと、後はすべてを開放し、気持ちの中に余裕というものを取り戻すことができる。
秋という時期もよかったに違いない。確かに寂しい時期ではあるが、心地よい風を感じることができる時期である。余裕を感じるためには大切なことだった。
鈴子はいろいろなところへ遊びに行きたいということはなかった。
「あなたと一緒にいるだけでいいみたい」
旅先で知り合ったのだから、旅行好きなのは間違いない。だがそれも自分探しの旅だと思えば、誠司と知り合うことで、何か自分を見つけたとも言える。誠司は鈴子と知り合うことで、余裕を見つけたのだ。しばらくは旅行に出ることもないだろう。
「どうしてあの時、僕に話しかけたんだい?」
思わず聞いてみた。
「どうしてかしら。誰かに話しかけたい衝動はあったのだろうけど、あなたの背中を見ていると思わず話しかけていたのよ。あの時のことを思い出そうとすればするほど思い出せないの。きっと自然に感じたのかも知れないわね」
自然に感じたのなら、思い出そうとして思い出せるものではないだろう。ふとした瞬間思い出すものなのかも知れない。そんな経験が誠司にもある。そんなふとした瞬間をいつも探し求めているのだ。
そんな鈴子が行ってみたいと言った長崎。今までに誠司も行ったことがなかった。一度友達と行く約束をしていたのだが、キャンセルになった。言い出したのは誰でもない誠司自身であり、ちょうど冴子に失恋してすぐだった。
そういう意味であまり長崎という土地を考えるのが嫌だったし、近づきたいとも思わなかった。だが鈴子に
「長崎に行ってみたいの」
と言われた時、戸惑いがなかったとは言わないが、わだかまりが解けたような気がしたのだ。目を瞑れば異国情緒溢れる長崎の写真が瞼の裏に浮かび、そこに自分と鈴子が立っている光景が思い浮かんでくると、まんざら嫌でもなかった。冴子と長崎に行ってみたいと思ったことはない。一緒にいるイメージも思い浮かべたことがない。それが却ってよかったのかも知れない。
作品名:短編集26(過去作品) 作家名:森本晃次