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短編集26(過去作品)

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「どうしてあの時、私を抱かなかったの? 魅力がなかった?」
 妖艶に微笑む鈴子。そこはホテルのベッドの中だった。妖艶な表情はいかにも小悪魔を思わせ、狂おしい笑顔に反応してしまう。
――この笑顔が私にとっての鈴子すべてなんだ――
 と思ってしまい、
「あの時抱いてしまっていたら、こんなに君を好きになることはないと思ったんだ」
「最初から同じ気持ちじゃなかったの?」
「同じ気持ちだったと思うんだけど、罪悪感が先に来てしまう気がしたんだ」
 罪悪感というのは適切な表現ではない。しかしその言葉に鈴子は反応しなかった。
「私は旅行から帰ると時々後悔することがあるの」
「何を後悔するんだい?」
「行かなければよかったってね、だって結局最後は戻ってくることになるんだし、得たことといえば、自分の居場所は今いるその場所にしかないということを再認識するだけだったんですよ」
 その気持ちは誠司にもよく分かった。最初の頃にはあまり感じなかったが、しょっちゅう旅に出ていると、自分の居場所の再認識という意識を持つことができる。ただ、それが誠司には後悔に繋がることがあまりないだけで、男と女の考え方の差ではないだろうか。肉体的な差だと言ってもいい。肌で感じる生活観の変化を女性は敏感に感じるものなのだろう。
 仕事で疲れた時は、男女関係などで悩む人を甘いと考えるし、女性との関係がギクシャクした時は、仕事の悩みが懐かしく感じられることもある。
 自分の居場所をいつも求めているように思う。会社での立場だったり、仕事が終わってからの安らぎだったりと居場所が一定していない時は精神的にも不安定だ。
 コーポでひとり暮らしをしている誠司は、会社に入社してすぐ、女性と同棲を始めた。
 相手は同じ会社の事務員で、入社したてから何となく気になっていた。名前を冴子といい、どこに惹かれたのか今ではハッキリと思い出すことができる。
 彼女は誠司よりも二つ年上、それを感じさせないあどけなさがあった。あどけなさというよりも、従順な雰囲気が一目見た瞬間から忘れられなくなった。
 なるべく人に悟られないようにしていたはずだ。しかし、会社のおばさん連中にはすでにお見通しだったようで、
「冴子さんが好きなんでしょう? ハッキリ言いなさいよ」
 倉庫のパートのおばちゃんから声を掛けられビックリした。なるべく素振りを見せないようにしていたのにあっという間にバレてしまったのだ。驚かない方が嘘である。
 気がつけばまわりのパートさんの目は好奇に満ちていた。その目は最初に声を掛けてきたパートさんが食い入るように見つめていたのを嫌でも思い出させるものであった。
――まるで見張られているようだ――
 と思ったが、それ以上に実際、自分の気持ちが冴子に対して感じていたよりさらに強いことを思い知らされた。
 もうまわりの目など気にしている場合ではない。
 夢を見ていても冴子が必ず出てくる。本当に夢の中なのかどうか分からないほどリアルな気持ちになるのは、それだけ自分の中での冴子の存在が大きいからだろう。
――もうここまでくれば告白するしかない――
 そう感じるまでにかなり勇気がいったに違いないが、実際に告白する時点では緊張はほとんどなかった。
 なかったと思っているだけかも知れない。開き直りが誠司を包み、感覚を麻痺させたとも考えられる。
 冴子の返事は、誠司の告白を待っていたかのように思える。それは後から感じたことだが、最初から分かっていなかったとも言えない。
「私、年上だよ? それでもいいの? それに私……」
 少し俯き加減ではあるが、視線はしっかり誠司を捉えていた。
 冴子の話は噂でいろいろ聞いていた。誠司が入社してくる前、好きだった人がいたようで、会社の人間皆承知の付き合いだったようだ。
 しかし、結婚を焦る彼女に対し、相手の男は冷静で、なかなか結婚というものに踏み切らなかった。年齢的にも三十五歳を過ぎていて、二十歳を少し過ぎたくらいの冴子からすれば、かなりの年上である。
 それは第三者が考えれば当然のことである。三十五歳といえば、想像だが何人もの女性と付き合ってきていることだろう。中には結婚に焦っていた女性がいて、自分も気持ちが盛り上がったかも知れない。
 女性は二十代前半で結婚に焦る時期があるらしい、それからは小さな気持ちの波を繰り返しながら気がつけば三十も半ばに差し掛かっている。これはおせっかいなパートのおばちゃんが教えてくれたことで、何が言いたいかを考えれば納得もつく。
 結局冴子は相手の男に業を煮やしたのか、最後はヒステリックになって別れてしまったようだ。
 誠司が一目惚れした時の冴子からは信じられない。
――これだけ落ち着いて見える女性が豹変するなんて――
 女性を見る目がないからだろうと思ったが、それでは冴子を好きになった自分を否定するようで、何とも矛盾した気持ちに戸惑っていた。自分も三十も半ばになって結婚していなければ、好きな女性が相手でも結婚を諦める気持ちになるのかどうかを想像していたのだ。
 ヒステリックになって別れてしまってからすぐ、まるで待っていたかのように男に会社から転勤の辞令が下りた。男の気持ちは今となっては分からないが、冴子はどうだったのだろう?
「どうだったんですか?」
 思わず話してくれたパートさんに聞き返してしまった。
「かなり憔悴していたはずよ。相当痩せたからね」
 華奢に感じるが、よく見ると胸の膨らみやヒップの具合からすれば痩せすぎている。明らかにもう少し太っていたことは想像がつく。しかし肉体のアンバランスさと、あどけない表情の何とも言えないコントラストが、誠司にはたまらない。ある意味失恋してすぐに出会えたことは偶然ではないのかも知れないと感じていた。もし、他の男と出会っていたらと思うと、出会えた時期に感謝するばかりである。
 告白に最初戸惑っていた冴子だったが、次第にその気になり始めた。まわりの声が彼女を勇気付けたのかも知れない。
「私、二度と男性を好きになることなんてないと思っていたのよ。でも、何だか違ったみたい」
 パートさんからもらった遊園地のチケット、
「彼を誘って行ってきなさい」
 と手渡されたそうだ。パートさんが彼女の方にチケットを渡したのは、それだけ長い付き合いだということを示しているのだろう。そんなところで自分がまだ新人であることを痛感させられた誠司だった。
 長い付き合いだということは、彼女が前付き合っていた男性にどんな気持ちを抱いていたかを知っているに違いない。彼女がどれほど憔悴したか、そして、その後に現れた誠司が、彼女をその苦しみから救ってくれることを期待しているのだろう。
 付き合いの長さを気にするなというのは、誠司にとって無理なことだった。どうしても自分の知らない間の時間、これが頭を擡げてくる。冴子はもちろん、まわりにそんな素振りを出さないようにしているが、態度に出やすい誠司のことだから、勘のするどい女性には気付かれているかも知れない。
 自分の知らない時間が存在すれば、それを埋めることは不可能である。だが、違う思い出を作り、新しい場所へ誘うことができれば、それが一番だ。
作品名:短編集26(過去作品) 作家名:森本晃次