短編集26(過去作品)
ビードロ細工
ビードロ細工
「私、長崎に行ってみたいの」
そう鈴子は呟いた。
「どうして長崎なんだい?」
誠司は答える。
「私は神戸や横浜と港町で育ったのよ。だけど、長崎には行ったことがなかったの、行ってみたいのよ」
鈴子とは旅行先で知り合った。それ以来しょっちゅう二人で旅行に出かけていた。いつもは誠司が行き先を決め、それに逆らうことのない鈴子だったが、初めて自分の行きたいところをハッキリと口にしたのだ。その理由を聞いてみたくなったのも無理のないことだった。
勝手気ままな大学時代、お互いに友達もいて、二人で出かける旅行以外に、お互いの友達と出かけることも多かった。だが、本当に好きなのは一人旅である。行った先でできる友達が増えていくことを最高の楽しみだと思っていた。そんなことは、もちろん鈴子の前で話すことなどなかった。
最初に知り合ったのは岡山県に一人旅に出かけた時である。社会人になってから久しぶりの旅行だった。どちらかというと観光地化されたところへ行くよりも、あまり観光客のいないような静かなところを訪れることに旅行の醍醐味を感じていた誠司は、十年くらい前に映画の撮影で有名になったところを訪れていた。
場所にして中国山地の真ん中あたり、ちょっと行けば鳥取県に差し掛かるところで、兵庫県もすぐそばまで来ているようなところだった。そこには鍾乳洞や、小さいが昔の城下町などのあるところである。小説を読んだり映画を見たことのある人でないとなかなか訪れないだろう。しかもそれが十年前となればなおさらである。
案の定、あまり観光客はいなかった。中には若い人もいたが、文庫本を片手に小説世界を堪能していた。かくいう誠司にしてもそうであり、人に話しかけられるような雰囲気ではない。
――まぁいいか――
久しぶりに小説世界に浸りながらの一人旅もオツなものである。ガイドブックが文庫本に変わったとしてもそれは皆同じことで、同じシーンを思い浮かべながら見ているのだと思うと、何とも不思議な感覚でもあった。
鍾乳洞を抜けると川があり、川の向こうに渡ると、出店が出ていた。ヤマメ料理などもあり、ちょうど昼食時間に差し掛かっていたこともあり、食べることにした。
客もあまりいなかった。年配のマダム連中が数人奥で話をしているだけで、自分が一人ポツンといるのが場違いではないかと思えた。だが、バイトなのだろうが、注文を聞きに来た女の子の乾いた声が、爽やかな印象を与えてくれ助かった。
「お一人ですか?」
後ろから女性の声が聞こえた。バイトの女の子よりも少し声がハスキーだったが、緊張して声を掛けたのだろう。震えているのが分かった。
「ええ、一人ですよ。あなたもお一人のようですね」
旅に出て女性に声を掛けることの多かった誠司だが、さすがに話しかけられたのは初めてである。声を掛けるということがどれほどの緊張を必要とするか知っているだけに、振り返ってその場に立っている女性の表情が頼もしく見えた。
「私は一人旅が好きで時々しているんですけど、途中で無性に男性に声を掛けたくなる時があるんです。迷惑だったかしら?」
「いえいえ、迷惑だなんて、そんなことはないですよ」
「それを聞いて安心しました。実は鍾乳洞の入り口に消えていくあなたの後姿を見ていたら、声を掛けずにいられなくなったんです。深い意味はないんですけども」
「私は声を掛けることはあっても掛けられるのは初めてですから、これほど心がときめくものだと思いませんでしたよ」
「私、男性に声を掛けるのは初めてなんですよ」
少し赤らんだ顔で話している。一言一言に重みを感じるのは、語尾がハッキリしているからだろう。
「そうなんですか、それはますますもって光栄ですね」
「きっとあなたの雰囲気が気さくな感じの話しやすい男性に見えたのだと思います。これまでにもいっぱい女性に声を掛けて来られたんですか?」
「そうですね、旅行に出ると気持ちが思い切り開放的になるんですよ。旅の恥は何とかって言うじゃないですか。小心者のくせに旅だけでは大胆になれるんでしょうね」
「だから声を掛けたくて仕方がなくなったのかしら。あなたの後姿が何かを訴えているように思えてならなかったものですから」
後姿を自分で見ることはできない。想像すら及ばないものだが、後姿に惹かれるものを持っている人を尊敬していただけに、彼女の言葉は心地よい世界を与えてくれた。
特に後姿が大きく見える時というのは、夕日を背中に浴びている時である。背中が丸まっていると、オレンジ色に染まって見えるのだが、自分に自信を持って背筋が伸びている人の背中は真っ白に見える。
もちろん着ている服にもよるのだろうが、誠司にとっての後姿を見るイメージが真っ白な背中であった。
足元から伸びている影も浮いて見えてくるくらいで、自分に自信を失っている人の影は地面にべったりとへばりついているように見える。
三歩下がって三くだり半というが、きっと後姿を感じたいからではないだろうか? 少なくとも鈴子はそんなタイプの女性に感じる。
最初は男に声を掛けられる積極性のある女性かと思っていたが、話しているとそのすべてが三くだり半の精神だ。男に尽くすことしか知らない自分が嫌になるくらい、男性というものをまったく違う人種だと思っているようだ。
「私、きっと誰か男性がまわりにいないと辛いのよ」
「君にしては弱気な発言だね」
まだ鈴子が積極性のある女性だと思っていた時に聞いたセリフだったので、耳を疑ったほどだ。
「ウサギって、寂しいと死んじゃうのよね」
か細い声だった。後にも先にもそこまでか細い声を鈴子の口から聞いたのは初めてだった。
「そのセリフ、どこかのドラマのフレーズのようだね」
茶化したつもりはなかったが、少し鈴子に睨まれた。思わず口から出てしまった言葉かと思ったのだが、本人は真剣に感じているようだ。
男性が一人旅に出るのと、女性が出るのとでは、かなりニュアンスが違ってくる。男性ならば、ナンパ目的だったり、自由に過ごしたいと思うのだろうが、女性の場合は傷心旅行だったり、自分探しの旅だったりと、少し男性に比べて重たいのかも知れない。不思議なことにそんな鈴子を見ていると、自分の重たかった気持ちが自然に軽くなってくるようだ。
鈴子と一緒に岡山県の城下町を回った時が、今までで一番楽しい旅となった。それまでは漠然とまわるだけだったのだが、鈴子はしっかり予備知識を仕入れてまわっているようだ。
「僕は大雑把なもので、なかなか予備知識を持ってないんですよ、面白そうなところや、落ち着ける場所だという先入観だけでやってきて、現地でその感覚に嘘のないことを感じて喜んでいるんですよ」
「それも一つの楽しみ方ですね。自分に自信がないとなかなかそこまでは感じることができないと思いますよ」
「そうですか? ただ旅行慣れしているだけかも知れませんよ」
その日、同じ宿に泊まり、一緒に食事をし、それから一緒に旅行を続けた。お互いに心のときめきを感じ、何かを求めていたのかも知れない。だが、結局男女の関係に旅行中なることはなかった。
後からそれを振り返り、
作品名:短編集26(過去作品) 作家名:森本晃次