短編集26(過去作品)
何が怖いというのだろう。記憶の奥を探ってみるが分からない。死にたいと思ったことがないわけでもないが、だからといって、本当にそこまで切羽詰っていたかは、自分でも疑問である。夢の世界に何かを感じているのは間違いない。
夢というのは潜在意識が見せるもの。だから、頭の中にあるもの以外は、たとえ夢といえども見ることができない。突飛な発想をすることができても、自分の頭が理解できていないと、夢の世界での私が存在しえないのだ。
異人館の窓から、
「大きな池に見えて、そこに飛び込みたくなる衝動に駆られる」
と私に告げた女性、私のトラウマを見抜いているようで怖かった。
そう感じると、今日初めて出会ったのではないような気がするから不思議である。
「以前にもどこかで?」
と思わず聞いてしまったくらいだ。
「お会いしたことありましたっけ?」
彼女は私の顔を見つめて首を傾げる。どうやら覚えはないようだ。
「そうですね。初めましてですよね」
照れ臭さも含めて苦笑しながら答えた。
「私は咲枝、高橋咲枝っていいます。あなたは?」
「私は、金村俊哉といいます。よろしくお願いしますね」
「一人旅ですか?」
「ええ、フラリと出かけてみました。学生の頃から好きなんですよ。フラリと旅行に出るのが」
「私もそうなんですよ。今の時期って最高ですね」
GWになれば、人が多くてゆっくりと見て歩くのは難しいだろう。それほど暑くもなく寒くもないこの時期は、彼女の言うように最高だ。
大きな池の話を聞いてドキッとしたのは、沼の話を思い出してジレンマに襲われただけではないような気がする。彼女の言うように、上から見ると、なるほど、大きな池のようにも見えなくない。しかし、私には大きな池というよりも、海原のように感じるのだ。青く広がる大海原、風が吹いてしけっている。なぜそう思うのか、最初はまったく分からなかった……。
元々は温泉に出かけたはずだった。しかし、電車の中吊りを見ていて、異人館のある街という宣伝が私の目を引いた。
坂の上から異人館をバックに写真を撮っていた。その向こうには入り江になった海が見え、実に爽やかに感じられた。神戸や横浜のように大きな街ではなく、異人館と言っても、このオランダ将校のような館がいくつかあるくらいで、他にはそれほど見るものもない。だが、宣伝効果は抜群なようで、
「あなたのそばに、あなたを見つめて」
という宣伝文句に私は惹かれたようなものだ。
青い空に白壁が眩しい光景は、ポスターからでも伝わってきた。神戸で見た異人館には感じられない思いがあったのは、その青い空に魅せられたからだろう。実際に来てみて、間違いなかったことが実証された。
私が旅行に出ていつも感じることは、
――結局、どこにいても同じなんだな――
ということだった。特に社会人になって現実逃避を試みたくなる時に、ふらりと旅に出るが、最後はどこにいても、気持ちは変わらないのだ。ただ、リフレッシュの気持ちで行く分には構わない。それが現実逃避ということになると、どうにも抑えられなかった自分に嫌悪感を感じてしまうのだ。
特に旅先で知り合う女性の多くは、「傷心旅行」という人が多い。同じくらいの歳の女性の一人旅だと、どうしてもそんな目で見てしまっている自分に気付く。
――ああ、この人も曰くあり気だな――
と思うと、まず間違いなく傷心旅行だったりする。
しかし、咲枝は違った。彼女には曰くを感じない。一人旅は間違いないのだが、目の色が違うとでもいうのだろうか、あまり下を向いて歩くようには見えない。
曰くあり気の女性は、最初は前を見てしっかり歩いていても、そのうちに頭が垂れてきて、重たそうな頭が痛々しく感じられる。
「私はフラリと旅に出るといっても、目的がありますからね」
目の色がイキイキとし始めた。
「目的とは?」
「私はフリーのルポライターのようなことをしているので、取材も兼ねてるようなものです」
「それは素晴らしい。いい記事が書けましたか?」
「ええ、私は他の人と違ってこだわりがあるんです。あまり観光化されていないところを探してまわっていて、趣味と実益を兼ねたというよりも、趣味の方が大きいですね」
そう言って、ニコニコ笑っている。
「ここもそうですよね。私は電車の中吊りのポスターを見て来てみたんですよ」
「あのポスターなら私も見ました。あれは意識しなければ、きっとあまり目に留まらないと思うんですよ。でも、一旦目に入ると、そのまま見入って、目が離せなくなってしまいます」
「私がそうでした」
「そんなポスターって結構あると思うんですよ。芸術家が芸術家の目で見たものだから、普通に見ている分には、なかなか受け入れられないところもあるのでしょうね」
「あなたは芸術家ですか?」
文章を作る人を、私は芸術家だと思っている。これも私のこだわりなのだが、「モノを作る」ことに携わっている人は、大なり小なり芸術家の端くれだと思っている。一つのことからいろいろな発想を巡らせ、まわりを固めていったり、逆に固められたまわりから、中心を埋めていく作業ができる人こそ芸術家なのだと……。
「きっと芸術家なんでしょうね。それなりにこだわって世の中を見ているつもりだし」
こだわりを持てる人も芸術家だと言えるだろう。その他大勢に埋もれることなく、個性を如何なく発揮しようと目論んでいる人は、すべて芸術家に見えるのだ。
そういう意味では、自覚がないだけで、ほとんどの人が芸術家と言えるのではないだろうか? きっとそういうと、自分を芸術家の端くれだと思っている人は、
「皆、芸術家だったら面白くない」
と、世の中を憂いてしまうかも知れない。自覚のある人だけが芸術家だとは言わないが、少なくとも、芸術家肌の人には自覚を持ってもらいたい。そうすれば、仕事ももう少しスムーズに進むと思うのは、無理なことなのだろうか?
芸術家を堅物だと思っている人がいるから偏見が生まれる。もっとも偏見を生む人が、得てして芸術家肌だったりするから、世の中は面白い。
「あなたを見ていると、面白い記事が書けそうな気がしますの」
「私を見ていて?」
思わず苦笑してしまった。確かに男の一人旅というのは、珍しいかも知れない。しかし、面白いというのはどうだろう? 哀愁を漂わせている気もしないし、ただ漠然と出かけてきただけの旅ではないか。
「あ、すみません。初対面の方に失礼ですわね。でも、初対面という感じがしないんですの」
年齢的にも、それほど離れているわけではない。少し彼女の方が私よりも年上であろうか。それでも五つと離れていないだろう。
彼女に初対面という感じがしないと言われても、私にはまだピンと来るものがなかった。
立場は逆転したようだ。確かにどこかで会ったような気がすると思ったのだが、それは最初だけで、話をするうちに、それが気のせいであったように思えて仕方がない。まるで、無意識に自分の中で、過去を打ち消すような、無理をしているもう一人の自分がいるように感じる。
「でも、どんな記事なんでしょうね。男の一人旅なんて、記事になるんですか?」
作品名:短編集26(過去作品) 作家名:森本晃次