短編集26(過去作品)
目の前に見える白い壁、その向こうには果てしなく青い空が広がっている。白壁の家を見るなど今までになかったことなので、しばし見とれていた。立派な庭に守られ、まわりには木が生い茂っている。しかし決して雑木林というわけではなく、キチンと整備されたものだ。拝観料を取って見せるその屋敷、それは昔のオランダ将校の屋敷であった。
このあたりには同じような家がいくつも立ち並んでいる。いわゆる外国人居留地、異人館といわれる場所である。
――こんなところに異人館があるなんて――
神戸でも横浜でも長崎でもない。神戸や長崎の異人館には出かけたことがあり、その時に異人館の雰囲気を味わったことがあるが、まるでその時の気分をそのまま思い出させてくれる佇まいに、私も学生時代を思い出していた。
表は汗ばむような陽気、しかし、中に入るとヒンヤリとしていて、冷たいくらいだ。表から見た白さが目に焼きついていて、中に入ると真っ暗に感じる。そのギャップが冷たさを思い起こすのかも知れない。
それにしても観光客は少ない。さすが平日を思わせるが、それも一興だ。慌ただしいのを嫌って出てきた旅だった。今さら団体など見たいとも思わない。
オランダ将校がここでどんな暮らしをしてきたのか。正直言って私には興味がない。しかし、建てられたのが江戸末期ということで、さぞや時代的には難しい時代だったことを想像させる。この建物の中からどんな気持ちで江戸時代の街を眺めていたのか、そっちの方が私には興味があった。
二階へと上がってみる。展示物がいろいろと飾られているが、まず私は窓から表の景色が見たかったのだ。西日が差し込むその部屋は、真っ暗に思えた一階と違い、一角が眩しい。吸い寄せられるように歩いていった私は、日の光を帯びるかのように、窓から表を見渡してみた。
最初に感じたのは、眩しさだった。真っ白な世界が目の前に開け、次第に緑を感じるようになる。先ほど広がっていた庭の森の緑である。
――高いなぁ――
思ったより下界が遠く感じられた。迎賓館のように、途中に踊り場のある階段を上ってきたせいか、息が上がっていない錯覚があった。しかし、塀の外を歩いている人の何と小さいことか、実に不思議な心境である。
手を庇にして空を見てみる。刺し込むような日差しを浴びるなど、いつぶりのことだっただろう?
仕事で忙しくしていたせいで、朝日を浴びていても、白さを感じるだけで、刺し込むような痛さを伴う日差しを感じることはなかった。感覚が麻痺していたに違いない。私のマネをするように観光客の数人が額に庇を作っている。
「眩しいわね。今日は暑くなりそうだわ」
少し年配の女性がいうと、まわりにいた同じ団体であろう女性たちが、一様に頷いている。私も心の中で頷いたが、その人たちと顔を合わそうとは思わなかった。
高校の修学旅行でも、私はあまり友達と一緒にはしゃぐことはなかった。学校ではいつも一人でいるようなタイプで、群れをなすことに一種の嫌悪感を感じていた。
そんな私なので、旅に出ても同じである。いや、旅先だからこそ、一人の時間を明確にしたいのかも知れない。
旅行ではあまり計画を立てることをしない私に、団体行動は似合わない。朝起きて、その時の気分で、旅行に行こうと思い立つこともある。そんな私だが、旅先で出会った人とはすぐに仲良くなれるのだ。きっと新鮮で開放感があるからだろう。
旅先での団体を見るのもあまり好きではない。嫌いというわけではないが、あまり好まない。うるさいだけで、静かにしていたい時は嫌悪感しか沸いてこず、なるべくなら視界の外に置きたい。
その日も眩しい太陽を見ながら、団体を自分の視野から外していたが、あまりにも眩しすぎて、顔を確認できないくらいになっていた。
その日の観光客が多いのか少ないのか分からないが、学生も中にはいるようだ。友達同士で来ている人もいれば、一人で静かにいる人もいる。女性の一人旅の人も何人か目に付いた。
刺し込むような眩しさのせいか、顔が確認できない。実に残念だ。
もう一度下を見ると、大きな木が一本あり、その根元から影が伸びていた。その影は、建物の壁を這うようにして、上に伸びている。
大きな木を見ると思い出すのが、会社の帰りに見かけた公園でのことだった。その日は少し体調が悪く、早退した日だった。微熱があるようで、帰りに病院で点滴を打ってもらっての帰宅となった。
ちょうど夕日の沈む時間だったようで、公園まで来ると背中に当たる西日のせいか、疲れた身体で歩くのが億劫になっていた。ベンチに座って少し休憩しようと公園に向ったが、横にできたマンションのおかげで、ベンチは日陰になっていた。
――助かった――
公園の横にある自動販売機で、アルカリイオン水を買うと、ベンチに座って少し飲んだ。冷たくて気持ちいい。きっと熱があるのも美味しさを倍増させているに違いない。
「今日も暑かったね」
「ええ、でも暑さはまだまだこれからよ」
「でも、この時期にしては暑いわ。まるで異常気象みたい」
「そうね、お互いに体調には気をつけないとね」
体調を崩している私には耳の痛い話を、買い物帰りの主婦がしていた。意識して聞いたわけではなく、自然に耳に入ってきたのだ。
小学生の頃にもそこのベンチに座った記憶がある。しかし、その時に隣にマンションなどはもちろんなく、日除けといえば、横にある大きな木だけだった。クーラーなどまだ一般家庭にそれほど普及していなかった頃だったので、木陰で一休みというのは、子供にとって実に風流な納涼だったことだろう。
雲ひとつない空ほど、暑く感じる日はない。今ではそんなことはないが、何も隠すものがないほど、そのものを引き立たせるものはないと真剣に感じていた頃だ。
木からセミの声が聞こえた。アブラゼミ程度ならそれほどでもなかったが、クマゼミの声ともなると、暑いというよりも、熱いといった感じで、肌に痛さを感じていた。耳の感覚はなくなり、風が吹けば却って暑さが増してきそうな気分になっていた。
熱がある頭で、小学生時代を思い出していると、隣にある木からセミの声が聞こえてきそうで、いかにも幻聴を感じていた。いくら異常気象で暑いとはいえ、春先にセミが鳴くなど信じられない。
だが、何となく聞こえてくるようで、気持ち悪かった。それだけ木の下にセミの声というシチュエーションに思い入れがあるのかも知れない。真新しいスーツを新鮮だと思って見ていた私は、誰もいないのに揺れているブランコを、いつの間にか気にしていた。
揺れているものを漠然と見ているのは、疲れている証拠かも知れない。だが、私は時々何も考えずに動いているものを見ているくせがある。小さい頃に家にあった柱時計の振り子などを「コチッコチッ」という音に合わせながら聞いていた。しかし不思議なことに、目の前に見えている振り子の動きと、「コチッコチッ」という音とが微妙にずれているのを感じていた。
作品名:短編集26(過去作品) 作家名:森本晃次