短編集26(過去作品)
自分の性格を一人で考えているよりも、友達にいろいろ聞きながらであれば、少しあまのじゃくだと思っていることも正当化するための言い訳を思いつきそうなのだ。だから人と話すことが好きなのかも知れないが、他の人はどうなのだろう?
「俺なんか、人と話していると自分のことが分かってくるんだ。自分ひとりで自分のことを考えたりはしないからな」
いつも話す友達はそう言っていた。そんなものかも知れない。もっともその友達は必要以上の労力を使うことを嫌うやつで、合理的なのか、人によっては、
「あいつはものぐさなだけさ」
という輩もいるだろう。
「言いたいやつには言わせておけ」
その意見には日高も賛成で、いちいち人の中傷を真に受けていては、神経がいくらあっても足らないというものだ。
だが、日高はそこまで神経が図太くない。人の声を気にしないで済む性格ではないくせに、自分は人と違う行動を取りたいと思う。そこにジレンマが生まれ、さらに自分を被害妄想に追いやってしまう。
――人と違う行動をするためには、人のことも分かっていないといけないんだ――
と考えれば少しは気も楽だったに違いないが、実際に被害妄想だと一旦感じてしまえばそこまで考える余裕がなくなる。そのことに気づいた時には、すでに遅く、自分の性格を思い込みで確立してしまった後だった。今さら考え方を変えるなど不可能に近い。
それでももっと普通の性格だったらよかったのかも知れない。人と同じ考え方をしていれば、人の行動から判断することも可能だったのだろうが、元々あまのじゃくなのだ。人の行動から判断することは難しい。
中途半端な性格だと思うようになっていた。
適当にやっていればいいんだと思ってみても、やり残していないかと心配になってしまう。どうせ適当なら、もっと堂々としていればいいのだろうが、気になるとどうしようもない。
「物事を深く考えすぎるからだよ」
「そんなことはないさ」
と言ってはみるが、なるほどそうかも知れない。考えなくてもいいようなことを真剣に深く考えて、考えなければいけないことをあまり深く考えない。だからまわりから見ても自分で考えても中途半端に見えるのだ。
「いや、中途半端ってことはないぞ。適当というわりにはまともにできている」
と言ってくれているが、疑ってみてしまう。確かに心配性なところがあり、
――下手な考え――
とも言えなくはない。中途半端な考え方でありながら、後から見れば事なきを得ていることが多い。
――今までは運がよかっただけさ、これからどんなことが起こるか――
と考えると恐ろしくなる。
油断ができない。必要以上に肩に力が入る。それが心配性と重なってしまうのだ。
「だったら中途半端なことしなければいいんだ」
という意見ももっともだが、自分がどこまでしていいのか、しなければならないのか分からない。人に教えてもらって覚えることもあるだろうが、教えてもらっても、その通りにできないところもある。
自分ですべてを理解していないと行動に移せない方で、それがあまのじゃくな性格と重なって中途半端で終わらせてしまうのだ。頭の中で勝手に袋小路を作り上げ、その中でもがいている。誰も助けてくれない。きっとそういう次元ではないのだ。そんな自分が嫌で嫌でたまらない。
平凡な毎日を送っていた。平凡が一番だと思いながらも、平凡すぎるといろいろ悪いことが頭を巡り、
――また考えすぎているんだ――
と思えてくる。
そんな中、見つけた密かな楽しみ。今まで考えたこともなかったものが頭を擡げる。
その頃の日高は童貞だった。男女の営みがどんなものか、ビデオなどでは知っていたが、
「あんな大袈裟なことはないさ。演技だよ」
と話すやつもいれば、
「いやいや、味合わないと良さは分からないさ」
という意見が経験のない日高を迷わせた。
想像だけが先走りする。
――意外と実際に経験すればそれほどでもないかも?
と感じたりもするくらいである。
想像というのは永遠のもので、夢とは違う。一見夢の方が限界なく見れそうなのだが、結局は潜在意識の枠を飛び出すことはできない。想像はさらにそこから大きな枠を形成できる。潜在意識を抑えるものがないからだ。意識がある時に得てして感じないのが潜在意識ではないだろうか。
だが、永遠ということは、袋小路に入り込んでしまえば、無限に袋小路から抜けられない気分にもなってくる。どこかで弾き出さないと自分の中で消化できなくなるだろう。
日高にとって隣室の悩ましい声は、十分に想像力を豊かに潤してくれる。罪悪感がないでもない。秘め事を盗み聞くようなマネは、今までの日高であれば毛嫌いしていた行動だろう。
――所詮、人間だって本能のままに生きる動物さ――
と考えれば自分を納得させることができる。いや、納得などする必要はない。今まで知らなかった世界を想像力という力を借りて、頭の中で実現しようとするのだ。
だが、想像しても頭の中に実際に浮かんでくるわけではない。普段の里絵の顔を知っているだけに、声だけでその時の表情や、仕草を思い浮かべるなど不可能に近かった。袋小路という世界に入り込めば同じことをずっと繰り返しているようで、どこかが微妙に違っている。
まったく動かない世界というのを想像したことがある。いつも見ている世界が完全に固まってしまっているのである。どこが違うというのか言葉で説明などできないが、凍りついた世界が目の前に広がっているのだ。
――本当に固まっているのだろうか?
と考えると、微妙に動いているのだ。普段の何十分の一か、何百分の一か分からないが動いている。ただ自分だけが普通のスピードなのである。
――皆から見れば僕はどんな風に見えるだろう?
と考えてみる。
どこかでピストルの音が響いた。
ものすごい重低音で最初はそれがピストルの音だとは気づかないのだ。瞬間的に、
――危ない――
と感じたが、スピードが遅いので簡単によけることができる。それが他の人に向けられたものなら他の人のスピードもゆっくりなので、当たってしまうのだろうが、その銃口は夢の中の主人公である日高自身に向けられている。
――なんだ、やっぱり夢なんだ――
なぜ、夢だと感じたかというと、そこには二人の日高が存在するからだ。
夢の中の主人公としての日高、そして夢を客観的に見ている日高、どちらの日高も自分の中の意志が働いている。
夢だと思うと安心してしまう。ゆっくりとまわりを見る余裕ができてくる。何しろ全体が思い切りスローモーションだからだ。
だが、客観的に見ている日高はあくまでも表の世界の人間で、夢に参加することはできない。そして主人公である日高は、自分の意志で行動しているという意識がないのだ。あくまでも意識としては表から客観的に見ている自分だけで、ピストルで狙われていることもきっと意識がなかったに違いない。
危ないと思っても、それをどうにかできない悔しさはあるが、夢だと感じるから余裕がある。いざという場面で目が覚めるのが夢というものではないか。
作品名:短編集26(過去作品) 作家名:森本晃次