自我納得の人生
「ありがとうございます。まさにその通りですよ。もし、自殺者が多いという話をされたとしても、ほとんど聞いていないと思いますね」
「そうでしょうね。お客さんを見ていると、気持ちが分かってくるような気がします」
ここの宿主は、若い頃は都会に出て就職したが、親が倒れたということで都会を引き払ってこちらに戻り、そのまま宿を継いだという。
「都会に未練はなかったですね。都会に出ても、結局田舎にいる時に見ていた都会は憧れでしかなかったんですよ。要するに自分がいる場所ではないということですね。すぐにそのことに気が付いたんですが、そんなところにおやじが倒れたと聞いて、いい潮時だと思って戻ってきました」
「後悔はないんですか?」
少しだけ考えて、すぐにさっぱりとした表情になり、
「ないですね」
と、答えてくれた。
額面通りに言葉を信じていいのかどうか疑わしいが、宿主の言葉を信じることが一番しっくりくる。人の話を素直に聞くというのもいいものだとその時に感じた。
宿主が言っていた自殺の名所に行ってみたいと思った。
その時の滞在予定は三日間を取っていた。夏休みのほとんどをここで過ごすことになるのだが、それは、戻った時、下手に時間があると、何かの未練が残りそうな気がしたからだ。
夢のような時間を過ごせたとすれば、それを都会に戻って一日でもゆっくりする時間を作ってしまうと、時差のようなギャップを感じると思ったからだ。
少しきついかも知れないが、戻っていきなり仕事に入る方が、ここでの時間が、
――夢のような時間――
として記憶に封印されることだろう。
この考えは、誠の独自の考え方だ。
親などは逆に、
「世間一般の考え方が、正しい考え方なんだよ」
と言っていたことがあった。
母親が言った言葉だったが、その言葉を聞いた時、何か奥歯に物が挟まったような違和感があった。
――僕とは違う――
その時、親の考え方が自分とは明らかに違うということを自覚した。そして、
――世間一般ってなんなんだ?
と、大きな疑問にぶつかった。
それが、子供の頃にあった、
――兄貴へのコンプレックス――
と繋がって、世間一般という言葉に敏感になったのだ。
それは、誠にとって敵対するイメージの言葉であった。
まるで仮想敵国が生まれたような気がした。それが家庭であることは、誠にとって皮肉なことでもあり、それ以上に自分を孤立への道に導いたのだ。
だが、それを恨んではいない。
――これが僕の生き方なのだ――
と思うようになると、誠は妙な納得があった。そのおかげで自分の中での
――夢のような時間――
を見つけることができたのだ。
そう思うと、誠はカメラを趣味にできたこと、そして、趣味を実益にしようと思わないことが、仮想敵国ができたおかげだと思った。
冒険をしないのも、自分独自の考えを表に出さないという意味では納得できる。実益にしないというのは、そのまま冒険をしないことでもある。下手に冒険をして失敗でもしたら、
「そら、見たことか」
と、言われかねない。
まわりの嘲笑う姿が目に見えてくるようだ。
その時の自分の表情を想像するとゾッとする。ひょっとすると、般若の形相で、心の中に、殺意が芽生えてしまうかも知れないと思うからだ。
だが、本当にその時に人を殺そうと思うのか、自分で死んでしまおうと思うのか分からない。自殺の名所が近くにあると聞いた時、そんな思いが頭の中を巡っていた。またしても、突飛な発想をしてしまったようだ。
一日目の夕食に、宿主がパインをデザートに出してくれた。今までの温泉宿で、パインをデザートに出してくれたところなど今までにはなかったのでビックリしたが、その時、忘れかけていた記憶がよみがえってきた。そう、子供の頃に家族で行った温泉のことである。
家族で行った温泉のことはある時期まで印象が深かった。カメラを趣味にしてから、ローカル線の写真を撮るために温泉に自分一人で行くようになってから、印象が薄くなり始めたのだ。
新しい印象が頭の中に植え付けられ、家族で行ったことが、子供の頃の記憶として封印されたことは、
――新しいものが古いものを駆逐しているのではないか――
と、感じたほどだった。
本人には、古いものを潰したいという意識はないはずなのに、実際に記憶に封印させようとする。封印できないものは、潰しても構わないというほどの意識が頭の中にありそうで、それが自分にとっての、
――大人と子供の境界――
のように感じられるのだった。
大人と子供の境目がどこにあるのかということを、考えてみたことがあった。
「成長期の終わった時が子供の終わりだ」
という人もいたが、逆の考えもある。むしろ逆の方が発想としては一般的なのかも知れない。
「成長期が表に見え始めれば、そこからが大人の仲間入りだ」
という考えである。
誠は、そのどちらも間違いではないと思っていた。
片方は、子供の終わり、片方は、大人の仲間入りである。つまり、大人か子供か分からないような曖昧な時期が存在しているということである。そういう意味で行くと、どちらの解釈も間違いではない。では、この中途半端な時期というのは、どういう意味を持つというのだろう?
子供の頃の思い出と、大人になってからの思い出の間、主に中学時代くらいになるのだろうが、記憶が曖昧な時期があった。
それは、自分だけに限らず、全体的に暗い時期でもあった。ただその中でも突出したかのように明るい連中もいたが、彼らのような存在も、必要な年齢だった。
彼らは、完全に浮いた存在だったが、どこか気になった。暗い連中から見れば、鬱陶しいという雰囲気を感じさせられ、自分もまわりから見れば同じように見ているのではないかと思われているように思えた。
高校生になってからは、自分も大人の仲間入りをしたような気がしていたが、大人はまだまだ子供としてしか見ていない。そのことを自覚してくると、まわりは皆焦れったく感じられるのか、背伸びしたくなるようだ。
大学に入学してから中学時代に入学した頃のことを思い出そうとすると、思い出すことができたのだが、高校に入学した時に、中学入学を思い出そうとすると、果てしなく前のように思えて、どこまでが記憶の中のことなのか、疑いたくなってしまった。それだけ記憶の中にウソが混じっているのではないかという意識が働いていたのかも知れない。
記憶にウソが混じっているという意識は、高校生の頃からあった。
高校生の頃に思い出す記憶は、中学時代よりも小学校の頃のことが多い。小学生の頃の方が、中学時代よりも記憶がより近い感じがして、記憶の中の時系列が曖昧だったりする。だから、中学時代の記憶が曖昧だと思うのだ。
中学時代の記憶にウソが多いという意識は、自分の意志であまり動いていなかったように思うからだ。誰かに命令されたわけではなく、
――逆にまわりの人と、自分は違うんだ――
という意識が余計に強くなったような意識があるのだ。