自我納得の人生
――僕の何を怖がっているんだ?
弟としては、逆に兄が怖がっている視線を気持ち悪く感じた。兄が怖がりだという思いを抱いたことはない。だから、表に出る表情には兄の怖がっている顔は想像できない。それなのに、視線だけで怖がっている様子を感じることができたのも不思議な感覚だった。
――やっぱり兄弟なんだな――
と感じたほどだが、兄弟だから分かる部分もあれば、逆に見えない部分もあるということに、その頃ちょうど気付き始めたのではなかったか。
兄を見ていて、兄が女性のように思えてくることがあった。バスケット部に所属していて活躍している兄を見ていて、誰が女性のイメージなど抱くというのだろう。弟だから分かることではないのだろうかと思った。
しかし、兄弟だから逆に思い込みもあるかも知れない。
兄に対して女性のイメージを感じたというのは、弟特有の思い込みなのかも知れないとずっと感じていた。しかも、その頃まだ誠は女性と付き合ったこともなかった。だから女性というものがどういう雰囲気なのか分からなかった。勘違いや、思い込みだと感じても仕方がないだろう。
誠に初めて彼女ができた時、
――これが女性のイメージ――
初めて付き合う相手なのに、どこか以前から知っていたように感じたのは、女性としての雰囲気を感じることができたからだ。それがどこから来ているのかすぐには分からなかったが、それが兄のイメージから来ているのだと分かった時、記憶は兄に対してコンプレックスを感じた時に戻っていた。
――せっかく、彼女ができて、兄に対してのコンプレックスがなくなってきたのに、何を今さら兄に対してのコンプレックスを思い出さなければいけないというのだろう――
誠はその思いが、自分の中で堂々巡りを繰り返らせていることに気が付いた。
その頃の兄は、中学時代の頃の兄とはすっかり変わってしまっていた。
元々口数は少なく社交的ではなかったが、さらに人と話すこともなくなり、何よりも、自分のまわりから人を遠ざけるようになっていた。
まわりにいる人は、必要最低限の関わりを必要とする人、仕事で関係のある人だけだったりしていた。彼女もおらず、作ろうという意志もないようだった。
考えてみれば、あれだけ女性にモテているように見えた兄が、本当に女性と付き合ったというのは、何人なのだろう? それはまわりが認めている人数よりもずっと少ないかも知れない。
――ひょっとして、付き合ったことはないなどと思っているかも知れない――
まわりが見る目と、本人が感じている自分との差が激しい人は結構いるかも知れないが、兄はその代表格ではないかと思えた。兄にとって、弟にコンプレックスを感じさせる雰囲気は、
――作られたもの――
だったのかも知れない。
それも、兄が自分で意識して作ったものなのか、それとも、自然と出来上がったものなのかの判断は難しかった。
それでも、今、自分たちのまわりで、
――何か見えない力が存在している――
という意識を持つようになってから、今まで兄に対して感じていた不可解なことも、説明ができそうな気がした。
見えない力というのは、見る方向によって、さまざまな形に見えているようだ。見えない力は放射線状に光を放ち、放たれた光と、自分の視線が一致した時、見えない力の輪郭が見えてくる。
だから、見る角度によって、いつも同じように見えてしまうのだが、それは、見えない力が、臨機応変にこちらの視線を受け入れているからではないだろうか。
――兄には、その力が見えていたのだろうか?
自分の力ではなく、まわりにある見えない力である。
誠は見えない力を兄から発せられてると思っていたが、実際は、
――兄と自分の間の空間に作られた力なのかも知れない――
兄から発せられたと思っているのは、兄の前に張り巡らされたオーラが発するオブラートしか見ていないからではないだろうか。そう思うと、実際の見えない力を発しているのは兄ではないということになる。やはり、そこに今回初めて感じた姉の存在が影響しているのではないかと思うのも、無理のないことだと思えてならない。
誠は、母が情緒不安定になっていることを、姉に話した。
姉は少し考えていたようだが、
「お母さんが情緒不安定だったのは、私がお母さんの中に入っていたからなのよ。あの頃のお母さんは、ちょっとしたことで不安になってしまい、すぐに自殺してしまいそうな雰囲気だったの。私にしかお母さんの気持ちは分からなかったし、お母さんの自殺を止めるには、お母さんの中に入って、気持ちを活性化させるしかなかったの。だから、怒りっぽくなったりして、まわりの人からはおおよそ普段のお母さんから想像もできないような態度が出てしまったのも仕方がなかったのよ」
話を聞いてみれば、何となく分かっていたような気がする。
怒りっぽい時以外は、何事にも自信がなさそうで、何を考えているか分からなかった。父親は家の中では亭主関白なところがあり、母とは違った意味で、口数が少なかった。
あまりいい家庭環境だとは思わなかったが、よく、文句も言わずに育ったものだと思った。姉がそばで見守ってくれていたから、今まで来れたのかも知れないと思うと、死んだ姉と話ができる不思議な環境にも納得ができる気がした。
怖がりな性格であるくせに、妙に度胸が据わったところがあると思っていたが、それも納得の行くことであれば、怖くないという思いがあるからなのかも知れない。もちろん、怖さがないわけではないが、それよりも納得を優先するところが自分らしいと、誠は感じていた。
姉が話を続けた。
「私は、弟、つまりあなたのお兄さんが病院で取り違えられたことも分かっていたの。でも、どうすることもできなかった。その思いが私の中にあるからなのかしら、なかなか成仏できずに、ここにいるの。あなたとは、ここで会うのは二回目くらいになるんだけど、お母さんとは、何度も会っているのよ。そして、あなたのお兄さんとも何度か会ってる。二人とも、なかなか私のことを信じてくれなかったんだけどね。無理もないことだと思うけど、お母さんには、もっと信じてほしかったと思うわ」
「僕は、お姉さんのことを信じていると思うの?」
「ええ、あなたは、私の存在を納得してくれているのが分かるからね。少なくとも、他の二人に比べれば、十分に納得してくれていると思っているわ」
「お姉さんは、自分の存在を信じてくれる人が僕だっていうことは分かっていたの?」
「ええ、分かっていたわ。でも、母やお兄さんが、あまりにも私の存在を分かってくれなかったので、どうしてもあなたに会うのが怖かった。だから、母やお兄さんの前に何度か現れたりしたんだけど、なかなか効果はなくて、却って逆効果だったわ」
そういえば、母や兄が、何か自分に隠し事をしているように思えてならないことがあった。
――同じことなのかも知れないと思いながらも、二人がまったく違った時期に、しかもリアクションも違ったのに、よく、同じ隠し事だって感じたものだ――
と、今から思えば思い当たるふしもないではなかった。
「あった」