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自我納得の人生

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 父にも罪悪感はあっただろうが、どうすることもできない現状に、さらに浮気を続けたようだった。
 離婚にならなかったのが不思議なくらいだが、子供二人は、何とかきちんと育ったのだ。
 その中で、母の懸念として、兄が本当に自分の子供ではないのではないかという思いがあったという。
――自分が生んだ子供なので、間違いはないはずなのに、どうしてそんな風に思うのだろう?
 どうやら、母は子供を病院で取り換えられたと思っているようである。そこに作為があったのかなかったのか分からないが、母は妄想のように思い込んでいる。
「子供を取り換えたっていうけど、それで誰が得をするっていうの?」
 と、言われて母は、
「あの女が私に嫌がらせをしているんだわ」
 と、言ったことから、父の浮気が表に出たということだが、父はそのことを否定しなかったという。
 母の情緒不安定な性格を分かっていて、さらに、他の女性を改めて知ったことで、父の中には、
――俺の人生は、まだやり直せるかも知れない――
 という思いが生まれた。
 その思いは、
――離婚も辞さず――
 だったようで、相手の女性とのこれからの人生を思い浮かべていたのも事実のようだ。
 かなり深いところまで考えていたようで、別れてからのことも頭の中にはあったようだ。ただ、そんな時に、母の口から不倫がバレた。母が不倫に気付いていることはウスウス気付いているようだったが、離婚するには、まだ黙っていてほしかった。
――計画が狂った――
 と思ったに違いない。
 そこまで修羅場に近いくらいのことが、誠が小さかった頃には繰り広げられていたというが、よく持ち直したものだ。
 兄もそんなことがあったなど、知らないようだ。
「よくケンカしたり、会話がなかったりしたことはあったようだけど」
 と言っていた。まさか、自分が母の本当の子供ではないと思われてるなど、想像もつかないに違いない。
 誠がどうしてそのことを知ったのかというと、情緒不安定な状態が慢性化し、時々発作的に襲ってくる母の興奮状態から、ポロッと、そんなことを聞いたからだった。
 母が兄に対して嫌悪感を抱いていたことは、今になって知ったわけではない。昔から分かっていた気がしたが、それを確かめるすべがなかったからだ。
 兄も母から疎まれていることは分かっていた。だから、家庭内に目を向けることはなく、いつも表ばかり見ていた。誠はそんな兄を見ながら、
――本当に兄弟なのだろうか?
 という思いに苛まれることがあった。
 兄は、誰が見ても、
――男らしい――
 と思われていたようだが、兄の中に女性的なところがあるのを誠は分かっていた。それが兄弟だから分かるのか、それとも、ずっと一緒にいるから分かるのか、どっちなのかとずっと考えていた。
――兄弟だという目で見ていれば、却って分からないことなのかも知れないな――
 と思うようになった。
 それは、血の繋がりのある者同士、見えてはいけないものがあるのではないかと感じることだった。
 それこそ、
――兄弟の中でのタブー――
 であった。
 見てはいけないものであって、気付いてはいけないものではない。
――見えなければ、気付くことはない――
 ということの裏返しではないかと誠は考えていた。
 ただ、感覚的に気付いていたかも知れないと感じることがある。
 それは兄に時々感じていた薬品の臭いだった。小学校の保健室から臭ってくる薬品の臭いを思い出すと、今でも小学生時代の兄の顔を想像できるようだ。
 今から思えば、母とは似ても似つかぬ顔だった。もちろん、疑念が頭の中にある中で想像するからなのかも知れないが、想像したわけではなく、頭に勝手に浮かんできた顔なのだ。
 ただ、兄に感じた薬品の臭いと、母から漂ってくる薬品の臭い、同じものではない。一緒にいる時に、同時に感じることはなかったので、何とも言えないが、薬品の臭いにも微妙な違いがあった。
 母にはアルコールの感覚があり、兄には、もっときつい臭いを感じた。
――まるでアンモニアだ――
 鼻を衝くこの臭いは明らかにアンモニアだった。
 子供の頃、ハチに刺されたことがあったが、その時の応急治療に使われたアンモニア、まさしく、その時の臭いだった。
 その時、一緒に来てくれたのが兄だったのだが、その時に、兄のイメージがアンモニアの強烈な臭いと結びついたのかも知れない。
 母に薬品の臭いを感じるようになってから、兄にも薬品を感じることで、アンモニアが結びつくのは無理のないことだろう。
 だが、臭いの違いがそれだけにとどまらないように思ったのは、兄に対して、
――本当の兄弟ではないのではないか――
 という思いを感じたからだ。
 自分に姉がいたというのも、その時に聞いたことだったおかげで、頭の中は混乱していた。
 兄に女性っぽさを感じていたのは、その話を聞くずっと前だったのが不思議だったからだ。
 病院で子供を取り換えられたというのが、嘘か本当か分からないが、今までに感じたことのない思いを兄に感じたことへの証明だったように思えたのだ。
――情緒不安定な母は、いつもその時どんなことを思い浮かべていたのだろう?
 誠は、ずっとそのことを感じていた。
 一歩足を踏み入れれば、前に進むことも元に戻ることもできない、まるで強風にあおられる吊り橋を想像していたのだろうか? 足元は谷底になっていて、落ちればもちろん、ひとたまりもない。
 何も考えずに一気に通り抜けてしまえば、なんてことはないのかも知れない。一歩でも立ち止まってしまうから、先に進むことができなくなってしまうのだ。
 時間が経てば経つほど、そこから逃れられなくなる思いは、吊り橋の上だけのことではない。人生においてたくさんのターニングポイントが存在するが、そのほとんどに言えることではないかと思っている。
 母にとって、父との離婚もそうだったのかも知れない。
 思い立ったら一気に離婚してしまわないと、時間が経てば経つほど、抜けられなくなってしまう。それが母には分かっていたのかも知れない。
 吊り橋を超えると、今度は見えてくるのが、やはり強風に煽られながら進んでくると目の前には、断崖絶壁があった。
――自殺の名所――
 として知られるその場所は、断崖絶壁とどのように違うのだろうか?
 誠は、そこに足を踏み入れた時、最初から自殺など考えていたわけではない。自殺する理由もなければ、自殺を怖いものだと思っていたからだ。
――それなのに、なぜこんなところに来てしまったのだろう?
 吊り橋を見た時、怖かったのだから、渡ろうなどと思わなければよかったのだ。
――少しだけ渡って、戻ればいいと思ったのか――
 進めば進むほど元に戻れなくなってしまうということを甘く見ていたのかも知れない。誠には、渡る前に進めば進むほど戻れないという意識はあったはずだ。それなのに渡ってしまったのは、ただの好奇心だけからではないだろう。
 進めば進むほど、後戻りはできない。
 吊り橋から落ちるか、断崖絶壁で、成就を果たすか、どちらにしても、そこに待っているのは、
――死――
 という一文字しかない。
作品名:自我納得の人生 作家名:森本晃次