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自我納得の人生

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 まだ、自分のことを「俺」という表現をしている。欲望はまだ心のうちにあるのだ。そう思うと、苛立ちがどこから来ているのか、一つではないということになる。足が動かない苛立ち、女を蹂躙しようとしているのに、どこか気持ちが萎えてしまっていることへの中途半端な精神状態。
 誠は、洞窟の中で、女を見ていて一つ感じたことを思い出した。
――この人は、ここの断崖絶壁で自殺しようとしたんじゃないかな?
 何か根拠があるわけではなかったが、女の影が薄かったのを感じた。
 洞窟の真っ暗な中で、影が薄いなどという感覚があるはずもないので、どうしてそう感じたのか分からない。ただ、小刻みに震えていた身体は、じっと冷たい洞窟の中にいて、感覚もマヒしているはずなのに、震えだけが止まらない。そこに、
――半分生きていて、半分死んでいる――
 という感覚があったように思ったからだ。
 大体、彼女がいつからそこにいるのかということも分からない。一時間程度だったのかも知れないし、何年もいたと言われても、きっと疑うことはないだろう。もし、何年もいたとしたら、ずっと震えたまま、誰も来ない状態で、放置されていたことになる。
――とっくに死んでいていいはずなのに、死ぬことも許されないのだろうか? いつからいるのか分からないが、どうすれば、そんな状態になるのだろう?
 などと、いろいろなことが頭を巡った。
 妄想というよりも、本当に悪い夢を見ているとしか思えない。それなのに、妄想だと思うのは、兄貴の恋人への欲望の気持ちに結びついているからだった。
――結びついているというよりも、背中合わせという感覚なのかも知れないな――
 という思いも次第に強くなってきた。
 どちらが表でどちらが裏なのか分からないが、表裏一体、そんな思いが誠の中にあった。裏と表が、それぞれある場面では表に出て裏に回る。気が付けば、それがいつの間にか反対になっている。誠は、表裏一体という言葉を思い浮かべて、そのことを考えていたのだった。
 自分の欲望と、洞窟の女を中心とした断崖絶壁や、温泉宿での思い出など、それが絡み合って、表裏一体のイメージを誠の中に形成しているのかも知れない。誠はそのことを感じながら、足の痺れから逃れられなかった……。

                   ◇

 誠の兄は、中学時代からまわりも羨むほとの好青年になっていた。弟の誠が一番嫉妬しているのを感じてはいたが、それ以上にまわりからの視線を痛いほど感じていたのだ。
 羨ましいという感情と嫉妬心は、裏返しである。どちらを感じるかによって、その人の気持ちに与えるものは、
――気持ちにゆとりを持てるか、持てないか――
 という感覚に変わってくる。
 普通の人は、素直に考え、羨ましがられていることを感じるだけだ。それだけであれば、さほど自分にプレッシャーがかかることもない。しかし、誠の兄は、プレッシャーを思い切り感じていた。そこには、裏も表も、両方の感情を一緒に感じていたからである。
 彼はその両方を甘んじて受け止められるほど、ふところの深い人間ではない。むしろ小さいと言ってもいいだろう。それは、弟の誠と比較しても小さなものなのかも知れない。それを知っている人は誰もいない。本人はもちろん、弟の誠にも分かるはずのないことであった。
 バスケットをしている時は楽しかった。何も考えずに集中できるからである。一つのボールに向かって集中している時は、
――悩みなんて、ボールを追いかけていれば、なくなるかも知れない――
 と思い、必死に追いかける。
 それをまわりは、彼の表情に真剣な中に、芯から楽しんでいる表情に、憧れを抱くのであろう。
「どうすれば、あんな楽しそうな顔になれるのかしら?」
 女性は、そう言って、彼に憧れるのだ。
 裏を返せば、自分の心に余裕のない女性にばかり、彼はモテていた。それを、
――俺はモテるんだ――
 という思いに一度駆られてしまうと、違う考えが浮かばなくなる。
 彼としても最初から、
――俺を好きになる女性が、好みの女性ばかりだとは限らない――
 と思っていたはずだ。
 それなのに、相手の顔を見ると、
――好きになってくれてありがとう――
 という思いが顔に出ることで、相手も、
――好きになってあげた――
 という、相手が優位な体制を最初に確立させてしまうことに繋がることを、彼には分かっていなかった。
 お人よしと言えばそれまでだが、そこが兄弟で似ているところなのかも知れない。
――女性は、俺よりも優秀なんだ――
 という思いがどこかにある。
 女性に限ったことではないが、相手と話をしているうちに、自分のことをすべて見透かされているような気持ちに陥ることで、自分よりも優秀だという気持ちが湧いてくるのだった。
 彼は、誠に比べると、誠のことを分かっているつもりだった。
 そのくせ、自分のことはよく分からない人間だという自覚があった。
――弟を見ていれば、弟の目線で、自分を見なおすことができる――
 と思うようになっていた。
 しかし、弟を見ていると、自分を見る目に、ロクな感覚は湧いてこない。完全に嫉妬心しかないという感覚しかなかったからだ。
 そのうちに弟のことも分からなくなってきた。
――俺と誠では、性格も違えば、考え方も違う――
 と思うようになった。
 その頃になると、まわりから、いろいろ押し付けられるようになった。バスケット部の部長もそうである。
「お前がやるのが一番だよ」
「お前しかいない」
 と、まわりはニコニコしながら言ってくる。
 もし、その顔にニコニコした表情がなければ、疑うこともなく、引き受けるのだろうが、なまじっか笑顔を浮かべることで、感情がウソだらけにしか思えない。
 要するに、
――厄介なことは任せておけばいいんだ――
 と言いたいのだ。
 完全に嫉妬心からの押し付けであろう。
 ただ、表面上は、
「一番バスケットがうまいやつが、部長をやるべきだ」
 というもので、それがモテる人間の「宿命」でもあるかのような発想であった。
 確かに間違った発想ではないが、任された方は溜まったものではない。ただ、おかげで、彼に憧れる女性が増えたのも事実だった。
 きっとまわりは、少し後悔している人もいるだろう。だが、モテることだけが幸せではないと思っている人もいる。
「好きな人が一人いれば、それで十分だ」
 という感覚である。
 その感覚が一番強いのは、本当は押し付けられた彼なのかも知れない。憧れてくれるのは嬉しいが、しょせん憧れでしかない。
「女性というのは独占欲が強いからな」
 という話は、何度となく聞いているので、案外モテる人間は、一人を選ぶことが難しい場合が多い。
 選択肢がありすぎると、それだけ間違った相手を選ぶ可能性も増えてくる。もし選択肢が一つであれば、イエスかノーかの違いだけで、判断もしやすいのだが、たくさんの中から選ぶのだから、その中には感情の葛藤もあるはずだ。
――選んだ相手が間違いだったかな? こっちにしとけばよかった――
 という後悔を考えると、なかなか決めることができなくなってしまう。
作品名:自我納得の人生 作家名:森本晃次