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自我納得の人生

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 それは、断崖絶壁から落ちていくような感覚である。その時に女性だと思っていたものが、実際は、断崖絶壁の上で見た一本の木だということに気が付いた。
 木を乗り越えるということは、そのまま断崖絶壁を飛び越えるということである。その先に待っているのは、「死」という言葉だ。
――僕は死にたくない――
 という思いを抱きながら、そのまま海に向かって落ちていくのを感じていた……。

                   ◇

 波に呑まれたと思ったその時、誠はハッと驚いて目が覚めたところだった。呼吸困難なくらいに胸の鼓動が激しかった。
――ここはどこなんだ?
 しばらく気が動転し、何も考えられないと思いながらも、必死に頭を回転させていた。
 泊まった宿の蒲団の中でないことは確かだった。そこは、布団というよりも、ベッドだった。それも、懐かしさを感じさせるもので、前にも感じたことのあるものだった。
 真っ暗な部屋の中で、無性に生暖かさを感じた部屋だった。目が慣れてくるまでには少し時間が掛かったが、慣れてくると、そこがラブホテルであることに気がついた。
 最近は相手もいないので行くことはないが、学生の頃には何度か利用したことがあった。社会人になっても、何度か利用していたのだ。
――今、僕はいくつなんだ?
 さっきまで断崖絶壁のイメージを頭に抱いていたが、あれは社会人になって、最初に夏休みに出かけたところでのことだったはずだ。
 断崖絶壁から飛び降りた感覚が、そのままラブホテルのベッドに結びついている。しかもそれは、ごく最近の記憶のようで、三十五歳になっているはずの記憶から、さほど古いものではないはずだった。
 大学を卒業してからの最初の夏休みと言えば、すでに十二年は経っている。記憶としてもかなり色褪せているもののはずなのに、どうして今さらそんな記憶をよみがえらせるというのだろう?
 しかも、目が覚めた今はホテルにいる。どんな経緯でここにいるのかなど、さっぱり分からない。
 さっきまで、何も感じなかったが、気が付けば、匂いを感じていた。相変わらず前を見ることはできないでいたが、感じてきた匂いは、温泉で感じたパインの匂いだった。
――一体、僕はどうしてここにいるんだろう?
 というよりも、元々が十二年前の記憶から、いきなり今の記憶に飛んだことで、自分の意識のどれが本当のことなのだろうかを疑っているのだった。
 自分が信じられないことが、これほど不安を煽ってしまうことになるということに気付いた。どちらかというと人間不信である誠は、
――自分が信じられなくなると、いよいよ何を信じていいか分からなくなるな――
 と思っていた。
 人間不信に陥ったのも、考えてみれば、社会人になった一年目の、あの旅行の時からだったのではないかと思い、今の自分から、その時を顧みることが必要なのだと思うのだった。
 誠が人間不信だと自覚したのは、社会人になってからだったように思う。あの頃は、仕事面でも人間関係でもそれまで信じていた自分の考えが、ことごとく否定された気がしていた頃のことだった。
 それまでもあまり人と関わりを持つことを嫌っていたが、それを人間不信だとは思わんかった。
――自分と相性の合う人が少ないだけだ――
 と思っていた。
 元から人と話をするのが好きではないのに、仕事では話さなければいけない。どうして話をするのが好きではないかというと、人に気を遣うことが嫌いだったからだ。
 嫌いというよりも、気を遣うことができないと言った方が正解なのかも知れない。それは相手が気を遣ってくれていることが分かっているからだ、
――まわりは、自分よりも優れた人ばかりなんだ――
 というイメージをずっと持ってきた。それを自分が人に気を遣っている証拠のように思っていたのは、自分よりも優れている人を感じることが、自然と相手に気を遣うことに繋がると思っていたからだ。まるで本能のように、勝手に気を遣ってくれるものだという思い込みが、誠を委縮させてしまうことに繋がっていた。
 萎縮してしまうと、孤独を感じる。人との関わりを億劫に感じる最初の段階に飛び込んでしまうのだ。
 萎縮は、自分を卑下することで、自分を正当化しようとすることに繋がってくる。そんな気持ちは態度に現れるもののようで、まわりも誠に近づこうとしない。
 孤独感は最初に感じただけで、それ以上感じることはない。感覚がマヒしているからだった。
 それは、子供の頃から感じていた兄に対してのコンプレックスがそうさせているのだろうと感じていたが、コンプレックスは、身体的なことだけだった。
 精神的には決して兄に劣ることはないと気が付いたのは、大学に入ってからだった。
 納得できないことは信じない性格が、それまでの自分の信念だったが、それが少し和らいできた。信じられないことでも信じてみようと思えば、何とかなるものだ。そう思っていると、気が楽になってきたのも事実だった。
 納得できないことを信じない自分だから、まわりの人から比べて劣っているという反対の面を感じていたのだ。
 納得できないことは信じられないからこそ、人より理解するまでに時間が掛かる。問題はその後である。
――理解してしまえば、こっちの方が応用が利いて、柔軟な発想ができる――
 というところまで頭が回らなかった。もし、頭が回っていれば、小学生の頃の自分は、まわりともうまくコミュニケーションが取れたのではないかと思う。
 誠は、高校時代、兄に彼女ができた時のことを鮮明に覚えている。
 その女性は、兄にふさわしいと言えたかどうか、今から思い出しても不思議だった。性格的には大人しい女性で、いつもどこにいるか分からないような感じだった。
 兄はバスケット部の部長を務めていたくらいなので、
「他にも女なんて、より取り見取りなのに」
 という話が聞かれた。
 誠が不思議に思ったというよりも、ショックだったと言ってもいい。不思議に感じたのは、本当に最初だけで、すぐに兄の気持ちが手に取るように分かった。
――兄貴は、自分にふさわしくない相手をわざと選んで、自己満足に浸りたいんだ――
 と感じた。
 誠は、彼女がほしいと思ったのは、
――他の人に見せびらかして、羨ましいと思われたい――
 という思いが働いたからだ。
 その思いと兄に感じた思いは同じものではないが、
「分かる人には分かる」
 という言葉になぞらえるなら、誠は、
――分かる人――
 になるのだ。
 それは、決して交わることのない平行線を描いていて、つかず離れずの感覚を映し出している。
――こんなことで兄弟を感じるなんて――
 兄に対して元々コンプレックスを持っていただけに、兄のやり方は、許されることではない。
 しかし、納得できないわけではなかった。それは、
――僕が兄のようにスリムで外見に申し分なかったら、同じようなことをしたかも知れない――
 と感じたからだ。
 その思いは、誠にとって兄への絶縁状に近い感覚だった。
――僕は兄とは違うんだ――
作品名:自我納得の人生 作家名:森本晃次