短編集25(過去作品)
それも一瞬のことに、打ち消されてしまっているのだ。
スピード感を感じると、ものの動きが止まったように見える。その感覚は以前から不思議に思っていたが、次第にその感覚が薄れてくる。考えていることに違和感がなくなってくるのか、感じていないような錯覚になるのだ。
私にはそんな気持ちになることが時々ある。不思議に思っていろいろと考えるが、気がつけば忘れてしまっているような時である。しかしそれは忘れているのではなく、感覚に慣れてきているのではないかと思えるのだ。それが人に対しても言えることであると思うが、自分でも不思議だ。
結構同じ電車に乗っていたり、生活リズムが合う人が近くにいれば、嫌でもその人のことが気になってくるというものである。実際に、今まで何人かそんな人がいた。学生時代でも朝同じように私の前を歩いているのだが、その距離は毎日変わらない。それだけに大きさも同じに見えて、その人の背中を見続けながら学校に向かうのだ。
違和感を感じることはもちろんない。逆にいない方が違和感があり、歩いていて目の持って行き場に困ってしまうのは必至だった。しかしその人に興味があるというわけではない。追いつかずに背中を見つめていることが当たり前で、気にしなければまったく気にならない石ころのような存在とでも言うべきではなかろうか。
――石ころのような存在――
もう一人の自分の存在を気にし始めてから、私はもう一人の自分を見かけることはないだろうと感じていた。それはパラドックスのようなものを感じるからで、SFドラマなどを見ていると、あるではないか。
例えばタイムマシンなどのような機械が発明された時をシチュエーションにした映画などでよくあるような、過去に出かけたとしよう。
――過去の歴史を変えてはいけない――
という約束事がある。過去の歴史に参画することは歴史への冒涜のように表現されるが、過去の歴史があって今があるのだから、変わってしまった歴史の影響が現在にどのような影響を及ぼすか計り知れないからだ。一瞬の元にまったく違った世界が飛び出してきて、皆そこに放り込まれるのだろうか?
果てしない想像が続く……。考えが袋小路に入ってしまった。
百歩譲って、まったく違った世界が形成されたとしても、それまでに考えていた個人個人の記憶というのはどうなるのだろう? 場面が一瞬にして変わってしまうということは、そこまで積み上げてきた自分の中の歴史に辻褄が合わなくなることを意味している。
では、記憶も一人一人辻褄が合うように形成されていくのだろうか?
私には疑問である。できるとするならば、それまでの記憶はすべて消え去ってしまって、知っているはずの人も誰も知らない世界に入ってしまうだろう。話がまったく通じずに、それぞれがパニックに陥り、収拾がつかなくなるに違いない。そんな状態が、変わってしまった過去から以降、続いていると考える。歴史の辻褄などそこには存在しない。過去があって、未来がある。その中間に現在があるという考えが成立しなくなるのではないだろうか?
私は「旧約聖書」を思い出していた。「バベルの塔」という話があるが、そこに出てきた話として、
――王様が天に近づこうと大きな塔を果てしなく高く作り上げようとしている。その時、儀式として天に向かって矢を射るシーンがあるが、神はその行為を冒涜として許さなかった。結果、神の力で皆の言葉を通じなくしてコミュニケーションを取れないようにした――
それが、たくさん地域の言葉が生まれた原因だとされているが、ある意味コミュニケーションが取れないということは、過去の記憶を消し去ったのと同じ効果である。
タイムマシンという考え方ができて、
――過去を変えてしまったら――
という発想と同じではないか。大昔の人もきっと「過去、現在、未来」という発想に思いを馳せていたに違いない。しかもそれは現代人の発想より、真剣なものではなかっただろうか。人とのコミュニケーションを必要とする時代。統率には人とのコミュニケーションが今よりも、もっと不可欠だった時代にして言えることだったに違いない。
私の中に、今石ころのような存在の人物がいないとは限らない。最初は気になっていたとしても次第に気にしなくなり、いることがまったく自然で、まわりに同化してしまったかのように思える人物。しかし、そんな人物ももう一人の私にとっては重要人物だったりするのかも知れない。
いや、もう一人の自分こそが、私にとっての石ころのような存在ではないか?
いつも私に対してだけ存在感を示さない。そばにいても私がまったく気付くことのない自分、そんな自分を他人が気付いているのだろうか? 時々疑問に思うことがある。もう一人の自分と重なってしまうことがあるとすれば、他人にもう一人の自分が見えたとしても不思議のないことだろう。
スピード感というものを感じる時、それが時間というものを感じている時ではないだろうか。時間の感じ方もさまざまで、長く感じる時もあれば、短く感じることもある。
また、期間によってもその差はまちまちで、一日が長いと感じていても、一週間が過ぎてしまえば短かったように感じることもある。
――点と線の考え方――
細かく点を作ってそれぞれを見れば長く感じることであっても、線として結べば実に短く感じることもある。
中学時代に野球をやっていた私は、無意識にそのことを実感していたかも知れない。
野球場を外から見るのと、中で実際にやっていて感じる広さとではかなりの違いを感じることができる。また同じフィールド内でも、横から見るのと、正面から見るのとでは、まったく違ったからである。
たとえばマウンドからキャッチャーを見下ろした時の距離はかなり短く感じたのだ。まるで目の前にキャッチャーが迫っているように見え、そんな時は調子もよかった。ベンチからマウンドとキャッチャーを見ているとかなり距離があるように感じる。きっと横から見ているからだとも感じるが、それよりも少し離れて見る距離感が、実際にマウンドの上から見る感覚とで違うのだ。
ベンチから見上げる投手をついつい自分だという目で見ている私は、きっともう一人の自分を見ていたに違いない。まだ入りたてで、ベンチにいることの多かった頃の私には、たえずマウンドで投げている自分の姿を想像していたのだ。
――もう一人の私――
そこには絶えず実際の私を見つめる冷静な自分がいるのだ。決して表に出ることなどないと分かっているもう一人の自分は、一体どんな心境で私を見続けているのだろう。
もう一人の私とは、現在に対してのもう一人の私なのだろうか?
実際の私は、未来と過去の間の一瞬を生きている。次の瞬間には違う私が実際の私となり、今、こうして考えている私が過去になる。どのタイミングを見ている私なのかという疑問が出てきても無理もないことだ。
きっともう一人の私はどの時代にも出現できる、たった一人の存在なのだろう。彼は私のすべてを知っていて、運命に逆らうことなく、ただ大人しく見つけることしかできないのだ。そう考えれば時々しかもう一人の自分を感じることがない理由がつくではないか。
作品名:短編集25(過去作品) 作家名:森本晃次