短編集25(過去作品)
と言われたこともあったが、考えてみればその通りだ。しかし、よいことがある時に素直に喜んでいると、どうしても開放感からか、気分がよくなるのも無理のないことである。それだけに反動での落ち込みも半端ではなく、立ち直るまでにゆっくり時間を掛けないと無理が掛かってしまう。気がつけば思ったより時間が経っていて、
――私は落ち込むと立ち直るまでにかなり時間を要する――
という考えが自分の中で形成されていく。
だが悪いこと、鬱状態の時から立ち直る時が私にはよく分かる。まず臭いが違ってくるのだ。春の暖かな陽気に誘われて、木々の芽が吹いてくる時期に漂っている香りを思い浮かべる。顔に当たる風も心なしか温かく、自分の中で、思わず背中に汗を掻いてくるような心地よさを感じるのだ。
足のむくみさえも感じることがあるくらい、私の中で何かが変化している。心境も前の日までと変わっていないにもかかわらず、私の感じ方が微妙に違う。
――感性が違うんだ――
学生時代からミステリー小説を書きながら考えていたことは、
――感性を磨くことだ――
ということだった。文章力などは本を読み漁って自分で書いていけば自然に培われていくものだと思っていた。感性こそが他の人との差をつける武器とまで感じていて、あまり人と同じ行動を取ったり、同じ考えでいることを嫌がる私にとって、小説を書くという感性を磨くことにピッタリな趣味は、水を得た魚のようである。
――感性は皆、ある程度までは生まれ持っているものなのだ――
という考えがある。私にもあれば、まったく小説や芸術に興味のない人にでもあると思っている。
では、一体どこでその差が開くのだろうか?
私が考えるに、どれだけ自分を冷静に見れるかだと思う。よい夢から覚める時に、感じる長い時間、そこにもう一人の自分の存在を感じるのも、感性と切り離せないものだからだろう。
目が覚めるまでに、
――見るはずだった楽しい夢をどこかで見ているような気がする――
と感じているのは、きっともう一人の自分が見ているということを分かっているからなのではなかろうか。もう一人の私が見ている夢、楽しい夢を完結させているのを感じながら目が覚めることで、時間もゆっくりなのだろうし、楽しい夢を見たということを覚えているのだ。
感性が見せる楽しい夢は、自分の潜在意識の中に入っているように思う。ふとしたことで、
――この感じはどこかで味わったような気がする――
という、いわゆる「デジャブー現象」も、もう一人の私が見ていて、それを思い出そうとして思い出せない自分がいるから感じることなのだろう。しかし、デジャブーを感じる時には、楽しい夢も夢から覚めるところしか覚えていないため、おぼろげな記憶しか残っていない。だから、記憶が楽しいことであったことすら忘れてしまっているに違いない。
怖い夢を見ている時はどうだろう?
もう一人の自分の存在に一番気づくのが、怖い夢を見ている時のような気がする。
――楽しい夢は簡単に目が覚めてしまうが、怖い夢も、寸前で目が覚める――
それこそ潜在意識のなせる業なのだろう。自分の意識の中のことでしか、夢の中でのこととはいえ、起こり得ないものだ。自分が死ぬ夢を見たとしても、本当に見たようには感じていない。確かに起きてから汗を大量に掻いていて、呼吸が荒くなっているのを感じると寸前まで行ったように思う。だが、そこから先は自分の意識の外にあることで、想像の余地すらなく、夢ですら見ることができないものだ。
だが、そんな夢も、もう一人の自分が覚めた後の夢を見ていると考えれば辻褄が合うのではないだろうか? 怖い夢というのは、同じシーンを何度も見ているような気がする時がある。同じ夢の中で繰り返し見ている時もあれば、まったく違う日に見ることもあるのだ。
同じ日に、何度も同じシーンを見ていると感じる時は、それが袋小路に嵌まったかのようで、夢の中でも意識があり、何とか抜けようと努力している自分を感じている。もう一人の私が、夢を見ている私に意識させているのだろう。
違う日に思い出したように見る夢は、それが最近見た夢なのか、それとも子供の頃の記憶なのかおぼろげである。しかし、そんな時に感じる「デジャブー現象」も、もう一人の自分が記憶をおぼろげにする魔法のようなものを使っているように思えるのだ。
怖い夢を見ている時は決まって自分が主人公である。時にはギロチンに掛けられるような夢、時には、どこに逃げても捕まりそうで、捕まってしまえば確実に死が待っていると分かっている時もある。
――死んだらどこに行くんだろうか――
夢の中でいつも感じることだ。
――目が覚めたら死んでいた――
という言葉を思い出した。まるで笑い話のようだが、魂というのは死なないというではないか。時間の経過にしても同じことが言える。
たった今考えている私は次に瞬間には過去にいる。まわりの人間だってそうだ。人と一緒に話をしていても、次の瞬間には過去なのだ。一体どの瞬間で切ればいいかの概念がないが、それも夢で感じることができない時間と似たところがあるのかも知れない。
私が初めてカウントダウンを気持ち悪いと思ったミステリーを読んだ時に、
――あれ? おかしいな――
と感じながら読んでいた。最初は何がおかしいのか分からなかったが、どうやら以前にもカウントダウンに感じた雰囲気と同じような興奮を覚えた小説を読んだ気がして仕方がない。そんな内容だったか思い出そうとするのだが、なかなか思い出せない自分に苛立ちを感じながら、ミステリーを読んでいた。
それはまさしく、怖い夢を見た時、
――以前にも同じような夢を見たような気がする――
と感じていて、それがいつだったか思い出せない気分そのもので、苛立ちを感じているのだが、同時に思い出せないことにホッとしている自分も感じている。
――ホッとしているのは、もう一人の自分なのかも知れない――
と感じるが、その理由は実際の自分がもう一人の自分を感じる時が限られているからだ。もちろん、もう一人の自分も同じように私自身を感じていたとしても、その時間は限られていることだろう。
――決して出会うことのない二人――
それが実際の自分と、もう一人の自分なのだろう。
もう一人の自分を感じる時に、相手は決して表に現れないのだ。自分が意識しない時に一瞬現われる。そして気がついた時には、すでに過去になっているのだ。
もう一人の自分が決して会うことのできない相手であるとするならば、それがその時々の自分であるという考え方が頭の中だけで成り立っていた。
――もう一人の自分とは、どんな人物なのだろう――
一瞬だけ現われる自分は感情もなく、存在をわざと押し殺しているように感じる。
電車がスピードを上げて走り去っている時、電車の窓に写っている人を観察していると、まったく動いていないように感じる時がある。凍りついたように見える雰囲気は、たとえニコヤカに話している表情を垣間見たとしても、その表情が変化していることに一切気がつかないでいるくらいである。きっと電車の中では身振り手振りも激しく、表情も豊かなのだろう。
作品名:短編集25(過去作品) 作家名:森本晃次