短編集25(過去作品)
「それは僕だって同じことさ。だから会うじゃないか」
「ええ、そうなんだけど」
相手の息遣いを感じ取ることができる。かなり緊張しているようだ。だが、きっと相手にも貝塚の息遣いを感じることができるかも知れない。ネットの文字との一番の違いは、相手の息遣いを感じることができることではなかろうか。
相手の息遣いを感じていると、暖かさを想像することができる。文字では想像できない暖かさ。それは距離が一気に縮まった証拠である。この気持ちで会えば……、きっと後悔などしないに決まっている。貝塚はそう思っていた。
なかなか渋っていた理緒だったが、それでも会いたいという気持ちには変わりないようで、最後は会うことに同意してくれた。最初から住まいは大体聞いていたので、休みの日に会うことは可能だった。理緒のネット経験は長い方だが、実際に人と会うのは初めてだという。それが余計に貝塚を有頂天にさせた。
「嬉しいね。僕が第一号になるわけだ」
「そうね。あなたなら裏切らないような気がするのよ」
「裏切る? その言葉がどういう意味なのか分からないけど、そう思ってくれるのは嬉しいよ」
「その意味が分からないところが気に入ったとでも言っておきましょう」
最後の言葉が気になったが、とりあえず会う約束を取り付けた。
会う場所は、近くの百貨店の前ということにしたが、たぶん分からないだろうから、携帯で連絡を取り合いながらということになった。この次の日曜日の昼すぎが待ち遠しい。
出会いが決まるとさらなる想像が貝塚を襲う。想像というよりも妄想に近いもので、夢を見るのも理緒の夢である。実際に会ったことのある人と初めて二人で出会うようなものではない。いくらネットとはいえ、自分の力で出会った相手だという思いがある。今までの貝塚が女性と知り合うことができたのは、必ず誰かの紹介からであった。それだけに、今度の出会いは自分にとってひとしおの思いがあるのだ。
仕事の営業で回っていて、近くで携帯電話の呼び出し音が鳴っただけで、思わず反応してしまう。特に女性との待ち合わせに使うための携帯の呼び出し音が他の音と違って感じるのは気のせいだろうか。営業の仕事ではあまりかかってくることもない。それもしっかりと根回しをしているからで、自分から掛けることはあっても、相手から問い合わせや苦情の電話がほとんどないからだ。
――これほど携帯電話の音が新鮮だったなんて――
今まで感じたことのない思いである。
それにしても、何と電話を掛けている男の落ち着いた対応だこと、楽しそうにウキウキしているのは窺えるが、緊張感などまるでない。それこそゲーム感覚での出会いを楽しんでいるようだ。
――私にはできないし、きっと理緒にもできないだろう――
そう考えると、さらに楽しみになってくる。きっと早鐘のように鳴り響く胸の鼓動のために、顔は真っ赤になってしまうことだろう。そう考えただけで、今も顔が熱い。
少し時間があったので、携帯で待ち合わせている相手の顔を確認してみたくなった。実に低俗な趣味の悪さなのだが、その時の貝塚にはそんな感覚はなかったのだ。
楽しそうにスキップを踏むような小走りで歩いていく男の後ろを追いかける。男はエスカレーターを降りていくようだ。電話の様子ではエスカレーターを降りた先に、待ち人がいるはずなのだ。
貝塚も我がことのように胸の高鳴りを感じていた。携帯電話片手の男にそれほどの緊張感がないため、当事者で一番緊張しているのが自分ではないかという錯覚さえもあった。
エスカレーターを降りると、さすがに待ち合わせのメッカと呼ばれるところで、たくさんの女性が散らばって人を待っている。上から見るとその分布図が滑稽にさえ見える。一人として固まっていないからだ。
現われた女性は楽しそうに男に近寄る。男も女を見つけて近寄るのだが、不思議なことにお互いが近づいていくのを見ていると、まるでズームアウトしてくるように貝塚から遠ざかって見えるように感じる。最初はハッキリと見えていたつもりの女性の顔も、すでに確認できなくなり、次第にどんな顔だったか分からなくなってきた。
――よく見かけるような顔だな――
と感じたが、それも一瞬、懐かしさを感じる顔であるが、次第に頭の中の霧に包まれてくる。
自分の中で思い浮かべた理緒の顔とダブッてしまう。それだけに懐かしさを感じるのだろう。
理緒と初めて出会う時のことを想像してみる。目の前の男のように冷静でいられるだろうか? 顔は無意識にウキウキしていても冷静に見えるのが不思議だった。
かなり手馴れているのかも知れない。手馴れている男を見分ける力が自分にあるとは今まで思っていなかっただけに、貝塚は妙な気分になっていた。
携帯電話が普及してから、自分が持つようになるまでそんなに時間は掛からなかったが、すべて仕事での使用でしかなかった。それだけにこの緊張感がたまらない。きっと人を待つのが好きな性格なのだろう。人と待ち合わせて必ず約束の時間の十五分前にはやってきているのも必然性があったのだ。
携帯電話で待ち合わせる光景を見てしまった貝塚は、どうしても理緒に会いたくて仕方がなくなった。
――会いたい――
この気持ちだけで、その夜パソコンを立ち上げたのだ。
「君に実際に会いたい……」
いきなり画面でそう打つと、理緒からの返事は、
「私もよ。あなたのそのセリフ待っていたのよ」
と、返ってきた。それを見ると顔が熱くなってきて有頂天になっている自分に気付いた貝塚だが、それも今までの誠意が実を結んだのだと喜んだ。きっと顔はニヤニヤほくそえんでいることだろう。パソコンを扱い始める前の貝塚が、もっとも嫌いだった顔ではないだろうか。
約束の場所を昼間の男が待ち合わせていた場所にしたのは、きっと自分だったらどんな顔をしているか、想像したいからだろう。その想像は楽しいものであるはずだ。そう思うから時間も昼過ぎと、昼間見かけたのと同じ時間に合わせた。
――きっと昼下がりに、白を基調にした洋菓子店がやっている喫茶店が似合う女性なんだ――
という想像が出来上がっている。夜よりも昼間の方が似合う女性だと思っていて、かなり自分の願望が含まれている。
待ち合わせ時間は午後二時、平日の昼下がり、わざわざ有給休暇をとって会うのだ。彼女はウイークエンドの昼下がりよりも、平日の昼下がりの方が似合う気がするからだ。
平日とウイークエンドの昼下がりではかなり赴きが違う。ウィークエンドの昼下がりといえば、まだまだこれから、夜にかけての時間はたっぷりあると考えるが、いくら休みを取ったとしても平日は気分的に慌ただしい。午前中の慌ただしい気分が落ち着いてきて、ゆっくりできる時間なのだ。それだけに平日の昼下がりは、どこか疲れを癒してくれる日の光を求めている自分を感じる。
――きっと理緒は、そんな時間を癒してくれる女性だ――
作品名:短編集25(過去作品) 作家名:森本晃次