短編集24(過去作品)
――あれ? ごく最近も同じようなことを考えたような気がする――
と気がつくことがあるが、それは目の前のシチュエーションがまったく同じだから気付くのだろう。黙って座って考えている時に気づくのだ。
夢を見ている時の感覚と似ているような気がする。覚えているとすれば最後に考えたことだ。夢というのも、目が覚める寸前の一瞬に見るというではないか。最後の一瞬に考えたことが、結論を示していなくとも、結論めいたもののような気がするのは、気のせいではあるまい。
最近私はよく夢を見ているようだ。起きてから、
――この間見た夢の続きだったようだ――
という思いを抱きながら目を覚ますことが多い。それだけリアルな夢が多い。学生時代の夢が多いのもリアルな証拠だろう。
別に学生時代が特別面白く、その頃に戻りたいと思っているわけではない。むしろ期待と不安に満ち溢れていた学生時代。不安の方が大きかった。確かにあの頃に戻ってやり直したいと思わないでもないが、戻ったところで、あまり大差ないと感じるのも事実である。
自分の性格を見切っているとまではいかないが、学生時代に比べれば自分のことを分かってきているつもりである。分からなかった頃の自分に戻るということは、不安が付きまとうというものだ。
むしろ、夢に見る大学時代の思い出は、嫌な思い出の方が多い。失恋の思い出や、試験前日に、翌日試験だということを知らされたという、あまりにも馬鹿げている現実離れした夢もあった。しかし、潜在意識のどこかにあるのだろう。仲間がいっぱいいて楽しかったという思い出の中で、どこか孤独を感じていたのかも知れない。
――いや、孤独など感じたことはなかった――
と、思い返してみるが、夢から覚めることへの安心感はどこから生まれるのだろう。それだけ、夢にセンセーショナルな思い入れを感じていることの裏返しなのだ。
普段からいろいろ考えているのも、潜在意識のなせる業なのだろうか?
何かを考えることで、自分を見つめているという考えはない。むしろ客観的に冷静に見ていることを感じる。熱くなるわけでもなく、それだけ時間の経過とともに、すぐに忘れていく。最近物忘れが激しくなったという自覚があるが、きっと考えていることを消化しきれなくなっているからだろう。以前は物忘れの激しさを感じなかったのに、急に感じるようになったのは、それだけ冷静に見れなくなったからなのかも知れない。
夢が頭の中で交差する。夢で見たものか、実際に感じたことなのか、時々分からなくなる。冷静に見ているつもりでも、冷静に見れなくなったのは、夢を見ている時と、起きている時に考えていることの感覚が麻痺してきて、混同しているからかも知れないと感じている。
――幸一くんを見ていると、まるで自分を見ているようだ――
と思えてしまう。
きっと頭の中でいろいろ考えているのだろう。
訴えている目がそのことを物語っているように思えるが、きっと本人にはその自覚がないように思える。
――私も同じような目をしているのだろうか――
と考えると、少し怖い。
私がこの店で幸一くんを見るのは今日が二度目だ。しかし、以前にどこかで会ったような気がするのは気のせいだろうか?
彼のようなタイプの人は、友達の中に必ず一人はいそうである。決して自分から目立とうとはせず、いつも端の方にいる。まるで石ころのような存在で、そばにいても誰にも気にされることもない。
しかし、一人でいると意外と目立つものである。別に私を見つめているわけではなく、手元にあるグラスを見つめているだけなのに、なぜか気になる。ひょっとして以前にも同じような光景を見たと思っているからかも知れない。それが彼に似た人物であったかどうかまでは覚えていないが、彼に似た人物は以前に会ったことがあると思うので、記憶が錯綜しているに違いない。
――一体どこで見かけたのだろう――
頭がフル回転している。普段からいろいろ考えている頭が小休止し、記憶を紐解くことに全神経を集中させているようだ。さっきまで時間の長さについて考えていたこともあってか、なかなか顔を見ているだけで、いつのことだったか思い出せない。
――本当にこの店で、会った以前のことなのだろうか――
半分自信がない。ひょっとしたら、この店以外で会った時に、ここで会ったことを忘れてしまっていて、初めて会ったと思ったとも考えられる。
逆も言えるのだ。
以前にこの店以外で会っていたことを、この店で彼の顔を見た瞬間に忘れてしまっていることだってないとは言えない。全然違う背景で、同じ恰好をしていれば、まったく別人に思えても仕方ないのではなかろうか。
どんな場所で、どんなシチュエーションでも、幸一くんのようなタイプは同じポーズが目に焼きついてしまう。本当は明るい性格なのかも知れない。だが、一旦染み付いてしまったイメージがそう簡単に剥がれることはありえない。
最初に感じたイメージのインパクトが強ければ強いほど、目に焼きついた姿から脱却できるものではない。だから、少しでも違うイメージがあれば、それはもはや別人のように思えてきて不思議がない。話をしたことがあるならまだしも、話しかけることもなく、声も聞いたことがない。それこそ石ころのイメージだ。
人が私を見る時、どうなのだろう?
ふと、そのことを考えてみた。
自分の姿形、ましてや声を自分で感じることは不可能に近い。確かに鏡を使えば、見ることはできるのだが、すべてが正反対に見えてしまう。絶対に人から見える自分を見ることはできないのだ。
――人が見る自分と、鏡を通して見る自分とは、どっちが本当の自分なのだろう――
と、いうことまで考えてしまう。自分が見る他人の姿、これがすべてだと思って見つめているが、人によって同じように見えていても感じ方が違う。自分が見つめる姿こそ本当の自分だと思っていても、それは自己満足でしかなかったりする。実に難しいものだ。
本当の姿とは一体何なのだろう?
鏡が映し出す姿をあまり自分で感じることはない。特に自分の声ともなると、実際に認識している声とは、かなりかけ離れているようだ。
以前高校の頃、弁論大会というのに出場したことがあった。学校内だけのもので、それほど大げさなものではないが、一年生の時に客席から表彰される先輩を見ていて、悔しくなる自分を感じた。最初こそ、なぜ悔しいのか、ハッキリした理由が分からなかったが、その時に初めて自分の性格に気付いたのかも知れない。
――人のものを欲しがる性格――
といっても、与えられたものを欲しがるのではない。手に入れた栄光、それを欲するのだ。
――自分に手が届くものを、貪欲に取りにいく――
それが私にある欲だと気付いた。
それからだろうか、私は自分というものを見つめる時の目が変わったような気がする。
今までは自分になかった貪欲さを、ある意味、罪悪とまで思っていたくらいである。
弁論大会は悲惨なものだった。リハーサルではうまく話せたつもりだったのに、実際に演台に立った自分が見たものは、
「真っ黒い壁」
作品名:短編集24(過去作品) 作家名:森本晃次