後ろに立つ者
相手は、信義よりも二つ年上であった。全員で事務員は三人いたが、他の二人に比べて引っ込み思案に見えた彼女は魅力的だった。要するに、一目惚れをしたのだった。
それまで信義は一目惚れなどしたことがなかった。好きになったとしても、徐々に気になっていく方だったし、まずは、自分に合う相手かどうかを考えてからになるので、どうしても一目惚れというわけにはいかなかったのだ。
彼女に対しては、最初からピンとくるものがあった。しかも、本人は意識していなかったが、彼女に対しての、自分が発散しているオーラがすごいものだったらしい。
彼女の名前は、安田和代と言ったが、
「石田君は、安田さんのことが気になるんでしょう?」
と、パートのおばさんたちから声を掛けられる。
それも一人だけなら、
「いや、そんなことはないですよ」
と、照れ笑いでごまかすが、数人から言われてしまえば、もはや誤魔化しても仕方が合い。
「そうですね」
と表情は、苦虫を噛み潰したような表情になっていたかも知れないが、素直に認めていた。
パートさんは、自分の目に間違いがなかったことで有頂天になるのだろう。誰もが世話を焼いてくれようとする。ありがたいことで、正直、信義もその好意に甘えようと思ったのだ。
もちろん、自分だけにではなく、和代に対しても声を掛けていた。
「和代ちゃんは、石田君のこと、どう思っているの?」
信義よりも長い付き合いである和代には、信義に対している時より気さくに聞けたに違いない。突っ込んだ聞かれ方をした和代もまんざらでもないようだ。
「いい人だと思っていますよ」
と、言葉は穏やかだが、目はマジだったようだ。
遊園地の招待券をくれたりして、デートのお膳立てを整えてくれたのは、本当に嬉しいことだった。それだけ、自分も会社の人から大切にされているという思いが強かったからだ。
それからしばらくして、社員旅行があった。
信義は、その時に思い切って、交際を申し込もうと思ったのだ。
二人が付き合っているというのは、自他ともに認めるものだったが、それはまわりがお膳立てをしてくれたことで成立したものだった。実際に付き合ってほしいという告白があったわけではない。
本当はそこまで必要がなかったのかも知れない。和代にしても、そこまで求めていなかったのではないかと思うが、信義自身が納得いかなかった。
信義は別にケジメを重んじるわけではないが、本当に好きな人に対しては、そこまでする必要があるのではないかと、和代と知り合ってから、初めて感じたのだった。
「和代さん、俺たちは付き合っているって思っているんだけど、その認識で間違いないかい?」
二人きりになれる時間を設けることができた信義は、おもむろに切り出した。
「え、ええ、その認識で間違いないと思っていますよ」
和代も少しうろたえていた。それは信義の告白の緊張感が伝わったからだろうか。まさか、この期に及んで別れ話をされるのではないかという危惧があるわけではないだろう。緊張感というのは相手に伝わるもので、考えたら、まったく意識していなかった和代への想いが、いとも簡単にパートのおばさんたちに看破されたのだ。信義の感情はストレートに態度に出るのかも知れない。
「でも、それは、まわりの人がお膳立てしてくれたからであって、俺からの告白ではなかったですよね?」
と、言うと、和代の表情に少し余裕が戻ってきたようだ。少し暗かった表情に影が薄れた気がしたからだった。
だが、まだ少し影が残っている。他の人なら分からないような影かも知れないが、信義は、
――俺だから分かるんだ――
と感じていた。
「ええ、そうですね」
と、彼女の少し上ずった声は変わらなかった。
「そこで、改めて、和代さんに聞きたいのですが、僕と正式にお付き合いしていただけますか?」
というと、彼女の顔がパッと明るくなったかと思うと、すぐにトーンダウンしてくるのを感じた。
――どうして、ここでトーダウンするんだ?
彼女が何か頑なになっているように思えてきた。それは彼女が何かに迷いを生じているからだと思ったが、その時はその原因が信義自身にあることだと思って疑いを持つことはなかった。
「あの、少し、そのお返事は待ってもらえないですか?」
トーンダウンの原因は、この期に及んでの戸惑いだった。
「あ、別に構いませんけど」
確かにトーンダウンは感じたが、まさかの返事の保留に今度は信義が戸惑ってしまった。
――余計な告白をしてしまったのだろうか?
告白などすることなく、このまま自然に任せて付き合っていけば、彼女も自然に自分をの付き合いを受け入れてくれていたはずだという自信はあった。
しかし、彼女に対してケジメを考えてしまった自分が口惜しいと思ったが、それは、ケジメという意味よりも、不安の払拭でもあった。
――安心して付き合って行くには、少々の不安であっても、払拭しておく必要があるんだ――
と思っていた。
和代に対しての不安は、他ならぬ、お膳立てをしてくれたパートさんから来ていた。
――どうも、皆、和代と俺をくっつけようとしている――
思い過ごしかも知れないが、その行動に疑いを持てば、後は不安に繋がってくる。
――おばさんたちは、俺のことは知らなくても、和代のことは前から知っている。今回のお膳立ては。俺に対してというよりも、和代に対しての想いが強いはずだ――
と思ったのだ。
それは、
――強引にでも、俺たちをくっつけようとしているのではないか?
そこに何があるのか、少し予感めいたものがあった。確かめるには、おばさんたちに聞いても答えは返ってこないだろう。答えが返ってくるくらいなら、最初から本当のことを教えてくれるはずだからだ。
そうなれば、和代本人に聞くしかない。それが、社員旅行での告白に繋がったのだ。
和代がトーンダウンすることよりも、
――もし断られたら――
という思いもないではなかった。躊躇されても、断られたのと同じショックを受けるに違いないとも感じていた。それは、信義の不安が的中したことを意味しているからであった。
――彼女には、以前に付き合っていた人がいて、まだその人のことを忘れられないんだ――
という思いである。
それは、誰もが知っていることで、ひょっとすると、皆を巻き込むような恋愛だったのかも知れない。それを皆知っているから、
――新しい彼氏を作って、過去のことを忘れさせてあげたい――
と皆が思っているのだろうと感じた。それが本当の親切心からなのかどうかは、まだ二十歳そこそこの信義には、ハッキリと分からなかったのだ。
信義は、ことの真為を誰かに確認しようと思えば簡単にできたが、それをしようと思わなかなった。自分から付き合ってほしいと告白したのだから、和代が、
「少し待ってほしい」
と言っているのだから、それに従うのが礼儀である。
そもそも人に聞いたとしても、そこに自分の考えや偏見が含まれないとは限らない。余計なことを吹き込まれて、却って混乱してしまっては、元も子もなくなるというものだ。
それよりも、信義は、
――どうして俺は、和代のことが気になったのだろう?