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後ろに立つ者

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 信義は、その場に立ちすくんでいたつもりだったが、時間的にはほとんど経っていなかったようだ。彼女の前の席に鎮座すると、
「仕事で遅くなって最終電車に乗り遅れてしまったんですよ。とりあえず夕食を摂らないといけないと思って、ここに立ち寄ったんですけどね」
 と、あらかたの事情を説明した。細かいことは説明する必要はない。会話の中で徐々に話をしていけばいいのだ。
 彼女に対しても、余計なことを聞いてしまってはいけない。気を付けないことはたくさんあると思いながらも、深夜のファミレスが急に寂しくなくなった気分になった自分に満足していた。
 それは、普段なら自分の年齢の半分にも満たない女の子に声を掛けるなど、信じられないと思っていたからだ。
 しかし、それは結構難しいことだと分かっているのに、声を掛けたというのは、
――その場の勢い――
 というのもあるだろうが、それよりもその時の自分が、ハイな状態にあり、ハイな状態になっていると、案外普段から気にしてできていないことでも、できるような感じがしていた。
 それは、気持ちが大きくなっている証拠でもあっただろう。徹夜明けのハイな状態というのは、饒舌だったりする。そんな時、普段言わないようなジョークを口走ることもあったりする。今日の信義は自分にそれを感じたのだった。
「私は、大学の三年生で、近所でアルバイトをした帰りなんですよ」
 と話してくれた。
 こんな時間までアルバイトをしていて、ここで本を読んでいるということは、家が近くだということなのだろうか?
 信義は一つ危惧していたことがあった。
 ここで文庫本を読んでいるということは、ひょっとすると時間調整ではないかということだ。食事をしているわけではなく、頼んだものはドリンクバーだけである。そして、時間調整というのは、人との待ち合わせではないかと思えた。
 待ち合わせであれば、相手が女の子でも男であっても、少し気まずい気がした。
 男であれば当然のことだが、相手が女の子であっても、余計に気まずい気がした。待ち合わせている女の子が、彼女のようにあどけない雰囲気であればいいのだが、それでも少し気まずい気がする。
「何、このおやじ。私のダチに気安く声掛けてんじゃないわよ」
 と、大きな声で罵声を浴びせられるかも知れない。ヒステリックな声で罵声を浴びれば、一気に精神的に沈んでしまい、精神破壊に繋がってしまうのではないかと思った。もし罵声を上げられなかったとしても、罵声に負けないほどの視線を浴びせられたら、どうすればいいというのだろう?
 きっとこちらも精神破壊に繋がってしまうかも知れない。そう思うと、背筋にゾッとしたものを感じた。
「あの、誰かと待ち合わせだったんですか?」
 聞いてみるしかなかった。それで待ち合わせだと言われれば、このままここを出ればいいだけだったからだ。
「いえ、待ち合わせなどしていませんよ。私、結構バイトの帰りにここで本を読んでいくこと多いんです。すぐに帰っても眠れるわけではないので、ちょっと落ち着いてから帰るようにしているんです」
「でも、すべてを済ませてから、布団に入って本を読んだ方がいいと思うんだけど、違うかい?」
「そんなことしたら、すぐに眠ってしまうじゃないですか。私は読みたい本をバイトの後で読むのが日課なんですよ。睡眠促進のために本を読んでいるわけではありませんよ」
 と、笑顔で答えてくれた。
 口調は興奮気味だが、表情は穏やかだ。これが彼女の性格なのだろう。
――ひょっとしたら、彼女には、付き合っている人はいないのかも知れないな――
 と、勝手に想像した。
 自分くらいの年齢になれば分かってるのだが、同い年の男には、彼女のように口調と表情が違う女性を相手にできるとは思えない。
「私は、石田信義と言います。よろしくね」
「私は、山田康子です。こちらこそ」
 お互いにニッコリ笑って、会釈した。康子の表情にはあどけなさの中に、大人の魅力も感じられた。それは、信義の年齢になったから分かることで、もし自分が二十歳くらいの男の子だったら、
――きっと康子の大人の魅力に気付かなかっただろう――
 という思いと、さっきの
――興奮したような口調と、穏やかな表情のアンバランスには、付き合いきれないと感じるかも知れないな――
 と思った。
 しかし、信義の場合、付き合いきれないと思いながら、最初は付き合おうと努力する。それでも付き合い始めるまでには、紆余曲折を繰り返すことになるのだが、次第に自分が破局の道に足を踏み入れてくることにまったく気付かない。
 付き合い始める前には危惧があるのに、付き合い始めるとまったく危惧がなくなるのは。それだけ自分に自信がないことと、執着心が強いからなのかも知れない。
 付き合い始めると、
――別れたくない――
 という思いが根底にあって、表面に出ているのは、都合のいいことばかりだ。
――付き合い始めたら、もう憂いなんてないんだ――
 と感じる。
 それはまるで、
――付き合い始めたということは彼女の気持ちは我が手中。もうこっちのものだ――
 という考えに傾いてしまう。いくら根底に別れたくないという思いがあっても、一度有頂天になってしまうと、麻薬のように悪いことを考える意志がマヒしてしまうのだろう。
 だが、もし自分に自信がある人であれば、
――わざわざ不安がある人と付き合わなくても、もっといい人が現れるに違いない――
 と感じるはずだからである。
 しかも、その気持ちに執着心が入ってしまうと、一旦付き合おうと思った相手を付き合わずに諦めることで、後から後悔してしまうことを極端に嫌がっている自分を感じることが執着心であることを忘れさせるほどの効力に繋がる。
 康子と面と向かっていると、いろいろなことを想像していた。それは主に自分の性格について顧みることであったが、今まで付き合った女性を目の前にして、こんなことを考えたことのなかったことを感じていた。
――若かった頃と今とでは、どこが違っているんだろう?
 若かった頃というと、自分が康子くらいの頃、いや、就職してからのことだったので、すでに二十二歳は過ぎていただろうか。
 まだ、一年目の研修時代をやっと超えて、本採用になってからのことだった。
 あの頃の信義は、ある意味で有頂天だった。大学時代にさほどいい成績ではなかったが、大企業とはいかないまでも、地元で大手の会社に就職することができた。不安も大きかったが、同じくらいに期待もあった。
 不安が八以上あれば、プレッシャーに押し潰されていたかも知れないが、不安と期待が半々だったことで、精神的に不安定な時期もあったが、それを乗り越えると、後は順調だった。
 もちろん、順風満帆というわけではなかったが、それでも仕事が順調だったことが一番だった。
 だが、二年目に入った時、隣の支店に転勤を言い渡され、新天地に赴いた。まだまだ転勤に違和感はなく、逆に新しいところに興味を抱く方が大きかった。
 今までの支店よりは少し田舎にはなるが、仕事をこなす上では関係のないことだった。
 そこの支店で、信義は一つの出会いをした。
作品名:後ろに立つ者 作家名:森本晃次