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後ろに立つ者

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――寂しさというのは、どんなシチュエーションからでも感じられるようにできているんだな――
 と、感心したほどだった。
 彼女は、信義のことを気にしながら本を読んでいたが、彼女への「出会いの予感」は次第に増してくる。信義は、文庫本をまわりに分かるようにわざと大きな音を立てて閉じると、それに気付いた彼女は、少し怯えた様子を見せたのだった……。

                   ◇

 いつもであれば、相手が怯えた様子を見せたとすれば、声を掛けるのをやめたに違いない。何しろ文庫本を勢いよく閉じたのは、彼女の様子を見るためだったからに他ならなかった。
 彼女の様子を見る限り、声を掛けられる雰囲気ではない。それなのに、おもわず立ち上がったのは、今日は出会いを感じるからだった。
――立ち上がってから、声を掛けるまでの間、彼女から目を切らないようにしないといけない――
 これが声を掛けるための鉄則だった。
 もし目を切ってしまったら、その時点で、足が竦んでしまって、先に進まなくなる。進めないということは、戻ることもできない。足元が不安定なつり橋の上に取り残された気がすることだろう。前に進むしかないのだが、前に進んでも一気に通り抜けた時のような余裕はどこにもない。通り抜けるだけで、神経を使い果たしたに違いないからだ。
「そんな大げさな」
 と、人は言うだろうが、実際に席を立ちあがった時、足元がガクンと歪んで、思わずバランスを崩してしまったのを感じた。
 きっとまわりの人には分からなかったような気がする。すぐに我に返ることができたことで、自分の中だけのことだということを感じたからだ。信義にはえてしてそんなことが今までにも何度かあった。それを治すことができたのは、身体に電流が走るのを感じたからだった。
 身体に電流が走る時というのは、仕事で会議の時など、急に襲ってきた睡魔に対処するため、一生懸命に起きようとするが、なかなかうまく行かない時、起こることはあった。一生懸命に頑張ったから電流が走ったのか、それとも、睡魔が襲ってきたのも、身体のバランスを崩す現象であるとすれば、正常に戻そうとする力が働いても不思議ではない。正常に戻そうとする力が、身体に電流を走らせたのだとすれば、納得の行くことである。
 足元のバランスが崩れたのも、会議中に襲ってきた睡魔と同じなのかどうかは分からないが、一つ言えることは、それだけ身体が緊張してたということだろう。
 身体が緊張してしまうと、どこか一点に力が集中してしまい、身体の平衡感覚というバランスが崩れてしまう。そのせいでガクンとなってしまったのだろう。
 元に戻そうとすることは、すぐに分かった。電流が身体を駆け抜けることは、その時から分かっていたのだ。
 だが、言葉にすると段階を追って考えられるだけの時間に余裕があったかのように思うだろうが、実際にはあっという間の出来事だった。席を立って、電流が走るまで、まるで電光石火のようだったのだ。
 電流が身体を駆け抜けたことで、話しかけようと思った気持ちが、一度リセットされた。リセットされたが、再度、違った形で、覚悟となって、信義の中に生まれた。
 そこから先、彼女に声を掛けるまでに感じた時間は、そこまでの電光石火のようにはいかなかった。
 普段よりも余計に時間が掛かったかのように感じるほどで、目を切らずに歩いているのに、近づいているはずが、どんどん遠ざかっていくような錯覚に陥った。
 もちろん目の錯覚なのだが、その原因は、目を切らずにじっと見ていることで、残像が目の中に残ってしまい、目が慣れてくることで、次第に残像が次第に小さくなってくるからだった。
――近づいているんだから、次第に大きく見えてくるはずだ――
 という常識を、錯覚がぶち破ったのだ。
 いつもであれば、簡単に分かることである。普段から理屈っぽいことばかり考えている信義である。その日は仕事も一段落したことで、感じる満足感と、時間が経ってきたことで次第に現在自分が置かれている環境が非常に寂しいものであることを自覚するようになったことで、複雑な心境になってきたのだろう。身体だけでなく、精神的にもバランスを崩していたのだ。
 精神のバランスが崩れた時も、元に戻そうとする意識が働くようだ。
 そんな時、信義は妄想を働かせるのであった。想像よりも、より自分中心の世界を妄想という形で頭に描く時、時として、一大戯曲ができあがることがある。ただ、残念なことに精神のバランスが元に戻ってしまうと、妄想は夢から覚めた時のように、記憶の奥に封印されてしまっているようだ。そのために、妄想が完結したのかどうか、自分でも分からない。
「ここいいですか?」
 やっとの思いで彼女の前に歩み出た。どれほどの時間が経ったのだろうか? その間に彼女も信義の様子に気付いていたに違いないが、その様子に最初と変化はなかった。
「いいですよ」
 一瞬の間があったかも知れない。だが、それは勘違いだと思えば思えてしまうほどで、信義にとって、勘違いと一瞬は紙一重であった。
 彼女の信義を見上げる顔に対し、最初に感じたのは、あどけなさであった。キョトンとした表情は、
――何が起こったのか――
 という感覚を驚きではなく、あどけなさとして表現できるのは、彼女の長所なのかも知れないと感じた。そして、信義自身、そんな女性が自分のまわりには存在せず、そんな女性を探していたのだということを、再認識した気がした。
 ただ、信義が気になってから、彼女は信義のことが気にならなかったわけではないだろう。視線は確かに感じたのだ。だが、それも目の前に誰かが来れば、席が少し離れているとはいえ、視線が向いてしまう人もいるだろう。普段なら気にしないのかも知れないが、最終電車もなくなり、ファミレスで一人文庫本を読んでいる女の子、そして、同じように文庫本を開いて読んでいる信義、同じ姿の二人が、奇しくもファミレスで対峙したのだ。
 年齢にも開きがあり、男女の違いもある。
――どこに共通点があるというのだろう?
 と思ったとしても不思議はない。
 それでも二人を単独で見ていれば、二人とも、この場にふさわしくないとは感じないところが不思議だった。
 信義にとって、この時間のファミレスは、さほど珍しいことではない。仕事で遅くなった時、ビジネスホテルを予約しているが、夕飯はファミレスに入ることもあったからだ。だが、自分と同じような年齢の人で、この時間ファミレスにいれば、浮いた存在になるのではないだろうか。自分だから意識しないだけで、きっと他の客から見れば浮いていたみていいに違いない。
 彼女の場合も、年齢的に一人でいても不思議はない。これも信義の思い込みなのだろうが、だからこそ、声を掛けてみたいと思ったと言えば、理由になるだろうか?
 彼女のあどけない表情は、信義を暖かく迎えてくれたような気がした。
 深夜のファミレスで、一人でいる二十歳前後の女の子に、中年男が声を掛けるのだ。まるで援交目的だと思われても仕方がない。援交などしていない女の子であっても、見知らぬ中年男性に声を掛けられると、一瞬であったとしても、訝しい表情になって当然ではないだろうか。
作品名:後ろに立つ者 作家名:森本晃次