後ろに立つ者
と思えてくるのも当然のことだった。
これが老人の言っていた、
――ここでは時間が短く感じるんだよ――
という発想に繋がっているに違いない。そう思うと、偶然というのも、決して信じがたいことではないように感じてくる。
康子を見ていると、自分と付き合っていた頃の和代を思い出してきた。
――まだ若かった頃の信義には理解できなかったことも今なら理解できるかも知れない――
と感じた。
ここのバーという不思議な時間が流れる場所に康子を連れてきたのも、そういう思いが頭の中にあったからなのかも知れない、
「お母さんは、昔のことを君に話したりするかい?」
「ええ、最近はよくしてくれるようになりました。高校生の頃は話を聞こうとしても、まったく相手にしてくれていなかったんですけどね」
と、はにかんだような笑顔を見せた。
それはまんざらでもないという表情で、
――お母さんが話をしてくれたということは、少しは私のことを認めてくれているんだわ――
と言いたげに感じた。
さらに感じたことは、和代によって娘の成長には段階を感じているのかも知れない。和代の中に娘に対して節目を持っている。ただ、それは自分が経験してきた人生の節目と同じなのか分からない。信義には、むしろ違うものに思えて仕方がないが、それはなぜであろう?
信義は、最近自分が絶えずいろいろなことを考えているのを感じて、ハッと我に返ることがあった。それだけ自我の世界に入っている証拠なのだろうが、数年前までは、
「空気の読めない人」
として、部下や同僚から蔑まれていた。
空気が読めるようになったのは、年齢によるものだけではないような気がする。北村先生の存在や、このバーの雰囲気、そして、信義に話しかけてくる老人の存在、ぞれぞれが結びつくことは、まるで一つの人格を形成するに十分な力を感じるのは大げさなことではないだろう。
また、急激に空気が読めるようになり、理解できなかったことが納得できるまでになったりしたことは、バーの持つ、
――時間を短く感じる――
という力によるものだろう。
――今の和代と話をしてみたいな――
と思って、康子を見ていた。
康子は娘の立場からしか母親を見ていない。だが、まずはそこから別れてから今までの和代が何を考え、どのような生活をしてきたのかが、少しでも垣間見えるのであれば、それでいいと思った。
下手にすべてを知ってしまうことは、決していいことだとは思わない。土足で人の家に入り込み、見たくないものを見てしまったとして、後悔が残ってしまったら、その時の憤りを誰にぶつけていいのか分からないからだ。
「実は、僕は君のお母さんと以前知り合いだったんだよ」
いきなり核心をつくような話を切り出した信義は、一瞬、
――しまった――
と、感じたが、口に出してしまったものを引っ込めるわけにはいかない。そう思うと、話してしまったことは悪いことではないと思うことにした。
すると、意外にも康子は驚きを見せなかった。
驚きや喜怒哀楽のような表情は、隠そうとすればするほど、わざとらしく映るもので、信義のように、相手が昔付き合っていた女性の子供だと分かってしまうと、わざとらしさに気付かないはずはないように思えた。
「何となく分かっていたような気がします。『あなたが私のお父さんだったらよかった』とまで感じたほどですからね」
「どうして、僕にお父さんを感じてくれたんだい?」
「私、どうやらまわりの人から見れば、近づきにくい雰囲気に見えるらしいんです。特に初対面の人にはそれが顕著に表れているらしくって、だから、お友達も少ないし、自分から殻に閉じ籠るようになっていまったんです」
――なるほど、深夜のファミレスに一人でいるので、どこか影を感じていたが、そういうことなら、分からなくもない――
康子は一拍置いて、また話し始めた。
「でも、あなたが声を掛けてきてくれて、嬉しかったんです。本当はもっと警戒しなければいけないんでしょうけど、あなたには警戒心がなかったんですよ」
そういえば、信義も和代と別れてからの自分が、今の康子の話のようにまわりの人から近づきにくい雰囲気だと思われていることを分かっていた。分かっていたからこそ、自分からまわりに近づこうとはしなかったし、そのうちに、
――一人でいるのも悪くない――
と思うようになった。
それは、孤独に慣れてきたというのもあるのだろうが、元々一人でいることに違和感がなかったのかも知れない。
――一人でいる方が、いろいろ考えることができるからな――
と、妄想癖がついてきたことも、悪くないと思うようになっていったのだ。
康子は最近失恋したと言っていたが、話を聞いてみると、康子に相手が着いてこれなかったからだと分かった。
――これって、俺が和代と別れるきっかけになったことにも繋がっているのかも知れないな――
と思いながら、康子を見ていると、さっぱりした表情は今まで見た中で、一番自分の知っている和代に似ているような気がしてきた。
和代とは別れることになったが、別に嫌いになったわけではない。自然消滅という言葉で片づけてしまったが、それはどうして別れることになったのか思い出そうとしたが、簡単には思い出せなかったからだ。そこに「自然消滅」という曖昧な別れで、理由を封印したのかも知れないという思いを感じるのだった。
――最初に直子に対して「自然消滅」してしまったことで、自分の殻に閉じ籠る手段としての「自然消滅」が身についたのだろうか?
と感じるようになっていた。
もう一つ感じるのは、
――俺は和代との別れを自然消滅だと思っているが、和代はどう思っているのだろう? 俺にフラれたと思っているのだろうか?
ただ、自然消滅として忘れてしまうには、それなりの理由があったはずだ。
それは思い出したくないほとの理由なのかも知れない。そう思うと、
――自然消滅というのは、自分にとって、受け入れがたい理由があることで、忘れてしまいたい――
と考えることもできた。
忘れることのメリットは、
――ショックから早く立ち直ること――
それが一番のはずなのに、和代と別れてから、ショックは思ったよりも残っていた。むしろ、理由が分からないという意識があり、ショックから抜けるまでに、鬱状態に陥ったこともあったりしたほどで、決して楽ではなかったはずだ。
――他に理由があるのだろうか?
そういえば、和代の後ろにいつも誰かを感じていた。それが直子だったのは分かっているが、実はもう一人の存在もその時に感じていたような気がする。それは妄想ではなく、リアルに感じたものだった。その人は、
――自分や和代のそばに絶えずいた人――
つまりは佐藤だったのだ。
佐藤の存在が自分や和代に対して大きなものになり、爆発寸前だったところまでは、記憶を紐解くことで思い出すことができた。それは今だから思い出すことができるというもので、当時には感じたことすら意識していなかった。ショックが長引いた理由もそこにあるような気がしたが、当時別れたことに対ししなかった後悔が、今になってよみがえってきたのも、不思議な気がしてきたのだ。