後ろに立つ者
もし、そうであるならば、和代には幸せになってもらいたいと思う。和代には、人に話せない悩みや苦しみが絶えず付き纏っていたような気がした。自分ではどうすることもできずにもがいている姿、それが表面から見える和代だった。
だが、表面に見えているのに、気付かない人がほとんどのようだ。和代を見る時、最初は、大人しそうな雰囲気からか、表面を避けて見てしまおうという意識が働いてしまうようだ。
信義も最初はそうだった。しかし、付き合っていくうちに、素直に表面を見ることで、彼女の気持ちが表に出ようとしているのを感じるのだった。和代は、辛いことや悩んでいることを、自分の内に籠めてしまったり、隠そうとする他の人と違って、表に出そうとする意志があるようだ。それだけに、他の人から見れば、本当の和代は掴みどころのないように見えているのかも知れない。
信義は、そんな和代だからこそ、気になったのだ。
――彼女は他の女性とどこか違う――
そんな気持ちが頭を擡げた。
――他の人と同じでは嫌だ――
という気持ちは、信義も同じ思いがあるのでよく分かっているつもりだ。だから、相手と同じ感覚でも嫌なのだ。その気持ちが衝突することで喧嘩が絶えなかったのも、今から思えば当たり前のことだったのだ。
――もし、和代が付き合っていた相手が里山や信義ではなく、佐藤だったら?
二人は幼馴染だというが、佐藤の引っ込み思案な性格からすれば、まわりから、
「あなたたち、幼馴染なんだから、お互いに恋愛感情なんてないわね」
と言われたりすれば、アッサリと認めてしまうだろう。認めてしまったら、苦しむことは分かっていても、それ以上どうすることもできず、苦しみの堂々巡りを繰り返すことになる。自分で分かっているはずだ。
だから、簡単に認めたくない。そのために人に対してへりくだったような態度を取ることで、相手の問いを煙に巻いてしまおうという意識が働いているとすれば、彼の態度は性格から来るものではなく、本能からのものではないかと思えるのだ。
性格から来るものであれば、そう簡単に、抜けることはないが、本能から来るものであれば、そこに本人の何らかの意図があるとしても不思議ではない。佐藤という男は、本能からくる態度を意識できる人間ではないだろうか。
――ある意味、確信犯だ――
と思えなくもない。
――どうして、俺はこんなにも、佐藤のことが分かるんだろう?
間違っても性格が似ているとは思えなかった。しかし、佐藤の行動が性格から来るものではなく、本能から来るものだと分かれば、理解できないことではない。
信義も、直子と一緒にいる時、自分が直子と一緒にいることで、何かの満足感を得ていることに気付いていた。いつもそばにいてくれるだけで暖かい気分になれるのを、まわりの人にひけらかしたい気分になっていたのかも知れない。
――それこそが本能だったんだ――
と、信義はその時初めて自分の本能を知ったような気がした。
――自分は他の人と同じでは嫌だ――
と、個性的な性格を表に出したいと思うようになっていったのだが、それも、本能から感じたことであると思えば、分からなくもない。
康子の失恋の話を聞いていて、どうしても結びついてくる発想は佐藤のことだった。康子も初対面の人に失恋をいちいち深いところまで話す気はなく、表面上だけ話しているつもりだったはずなのに、信義が勝手に堂々巡りを繰り返すことで、自分に照らし合わせて聞いてしまっていたのだ。
康子と話をしているうちに、康子にも北村先生の話を聞かせてあげたいような気がした。きっと北村先生となら話をしているだけで、落ち着いた気持ちになってくるだろうと思ったからで、自分には頭の中で考えることはできても、整理して言葉にすることはできない。
「僕の知っている人に大学の先生がいるんだけど、今度紹介してあげよう。きっといろいろといいお話をしてくれると思うよ」
というと、
「ありがとうございます。信義さんとお話していても、何となく落ち着いてくるのを感じますよ。まるでお父さんができたみたい……」
と言って、少しだけ暗い表情になったのを見逃さなかった。
「お父さん、いないのかい?」
「いえ、実はお父さんも大学教授なので、信義さんが大学教授のお話をしてくれたことでビックリしたのと、私が勝手に思っていることなんだけど、お父さんは、実の父ではないように思えるのよ」
「お母さんは何て言っているんだい?」
「母は、最初悲しそうな顔をして、すぐに我に返ったように笑顔で、そんなことはないって否定するんですよ。これって、やっぱりおかしいですよね?」
「お母さんのお名前は何て言うの?」
「和代って言います」
――やはり、以前に付き合っていた和代だ――
今さら偶然だとは言いにくいところまで発想は暴走してしまっているが、偶然だと思いたい自分もいる。
発想が暴走したのも無理はない。最近、和代と付き合っていた頃のことを夢に見ることが多かったが、これも虫の知らせのようなものなのか、夢の中で繰り返していたのは妄想だったが、それは発想の暴走とは違うものだった。妄想は好き勝手に自分に都合よく考えられるが、発想の暴走はそうではない。決して好き勝手に想像した自分に都合のいいものばかりとは限らないのだ。
そういえば、この店で話をした老人が、
「この店では時間が早く感じられる」
と言っていたのを思い出した。
老人が信義に話してくれる内容は、すべて今の自分に当て嵌まっているような気がしていた。
老人の話は漠然としていて、抽象的な話が多く、多分普通に聞いていれば、何を言っているのか分からず、途中から、
――考えるのをやめよう――
と思うほど、頭が混乱してしまうかも知れない。
だが、馴染みの喫茶店で出会う北村先生と今までに話をした内容を思い出すと、老人の話が手に取るように分かってくる。
もちろん、老人の話を漠然と聞いているだけでは、理解するには程遠いことだろう。だが、話を聞きながら、自分の考えを確かめるかのように返答していると、話も繋がってくるし、老人も話を砕いてしてくれるようになる。相手が分かっているのか分からない時は、自分の考えを一方的に押し付けるしかない。余計に相手に分かるはずもなく、二人の水は深まるばかりだ。
だが、信義のように返答を繰り返していると、会話が活性化してきて、老人も考えるようになる。
――この人は、俺のように話ができる人を探していたのかも知れないな――
話が分かってくると、まるで雲を掴むような話でも、空を見上げた時に、
――本当に雲が掴めるかも知れない――
と思うほど、相手との距離をリアルに感じるのだった。
信義にとって、北村先生との出会いと友好が、バーでの老人との友好に繋がってきていた。
それまで頭の中で疑問に思っていたことも、目からウロコが落ちたかのように分かってきたことも少なくない。
疑問に思っていたことは、堂々巡りを繰り返す。
繰り返した堂々巡りは、同じものとして積み重なっていく。それがそのまま時間として重なって行ったのだとすれば、それが老人との話で一つに繋がると、
――まるで時間が短くなったような気がする――