後ろに立つ者
「そうじゃなかったの。その人は逆に、急にへりくだるようになって、私に気ばっかり遣うようになったのよね。お付き合いするというのは、お互いが平等であって初めて成立すると思っている私は、彼に対して失望が大きかったのよ」
信義は頭の中でまたしても佐藤を思い出していた。へりくだった様子ではあるが、一生懸命に話をしているその姿は、相手を洗脳しようとしているのではないかと思わせるほどのものだった。康子の話を聞いているうちに、頭の中で堂々巡りを繰り返しているように思えてきたのだ。
康子も相手にそんな雰囲気を感じたというのだろうか?
「確かに、気を遣っている人を相手にするのは疲れるよね」
と信義は結ぼうとしたが、
「でもね。その人の変わりようは別にして、変わってしまったその人を、以前に誰かに感じたことがあるような気がしたんだけど、どうしても思い出せないのよね」
と、康子は言った。
遠くを見つめるような目を見ていると、それ以上何も言えなくなったのだ。
信義が考えている佐藤のイメージで一番怪しい部分に触れることなく、敢えて気を遣っているというところを指摘した。
康子は少し俯いて、どう答えようか考えているようだったが、
「そうじゃないの。あの人を見ていると、確かに私が知っている彼とイメージがガラッと違ってしまっていることで、怖くなったのも事実なの。でもそれ以上に怖かったのは、同じような性格の人を、自分が知っていたのではないかと思うことだったの。初めてのはずなのに、以前にも会ったことがあるような気持ちですね」
そこまでいうと、一拍置いて、
「信義さんに感じた、初めて会ったような気がしないという気持ちとはまったく違ってですね。表現は同じでも、現象はまったく正反対というのは、そうあるものではないと思っていたけど、意外と多いことなのかも知れませんね」
康子の言葉を聞いて、
――初めて会ったような気がしない――
という発想が、自分が感じている暖かな雰囲気以外にもあったことを意外に感じた。だが、心の底では、
――康子と同じようなことを考えていたのかも知れない――
と感じたのは、康子の話の一つ一つに納得させられるものがあったからだ。
康子には説得力があるとは思うが、それだけではないように思う。納得するには結局、自分で納得できる何かが最初から備わっていないといけないと思った。しかも、それはいつでも取り出せるところにないといけない。意識や記憶の奥に封印して、なかなか取り出せないものがあると、感じることのないものなのではないかと思うのだ。
――そう感じるのは、頭の中に、誰か印象深い人が残っていて、その人が絡むことで、感じることではないだろうか――
信義にとっては、それが直子であり、康子であるのかも知れない。そこに誰か男性が絡むとすれば里山ではないかと思っていたが、まさか佐藤ではないかと思うなど、想像もしていなかった。
佐藤は、人の影になったり、縁の下の力持ちになったりすることはあるが、決して表に出てくる性格ではない。表に出て来ようとすると、力が入ってしまい、まわりに不穏な空気を漂わせることになる。本人の望むところではないはずだ。
それなのに、和代のことになると、表に出ようとしてしまったようだ。
和代と自然消滅した後、佐藤は和代に言い寄り、手ひどくフラれたという話を後から聞いた。その時点では、信義はすでに転勤になっていて、正確な情報を確かめるすべもなかった。それを確かめるために、わざわざ前の勤務地を訪れるようなことはしない。結局、
――佐藤は、そんなことはしないだろう――
と、噂を自分の中で揉み消してしまい、いつの間にかそんな噂も風に舞ってしまっていた。
佐藤の性格を正面から理解しようとしなかった時のことである。佐藤の性格を分かるようになったのは。和代が退職したと聞いた時だった。
その時、初めて和代と知り合ってからのことを、一から見直してみた。別れてから、和代のことを考えないようにしていたのは、まだ同じ会社にいるという意識があったからだ。会うことはないかも知れないが、誰かからの噂で耳にすることもあるだろう。聞きたくもないことを聞かされるのは辛いが、本当は噂でもいいから、耳に入ってくることでドキドキしてしまう心境を密かに楽しみにしているのかも知れない。
別れたのは自然消滅だったはずなのに、心の中では自分がフラれたような気持ちになっている。フラれた時と同じ惨めな気持ちが湧き上がり、自分がどんな表情になっているのか、想像するだけで、情けなかった。
和代の退職より、佐藤の退職の方が早かった。和代が退職したという話は伝わってきたが、佐藤が退職したという話は伝わってこない。それどころか、彼のことを口にするのはタブーであるかのようなイメージがその時は漂っていたという話を、かなり後になって聞かされた。その時はすでに、佐藤のことも、和代のことも気にならない時期に差し掛かっていたのだ。
今さら思い出させたのは、和代が結婚したという話を聞いた時だ。辞めてから半年もしないうちに結婚したという。よほど結婚を焦っていたのではないかという話を聞いたが、相手が大学教授だと聞いて、さらにビックリした。別に焦っていたわけでもないのかも知れない。
その頃から、大学教授というのは、信義の中で特別な存在になっていた。北村先生を意識したのも、そのせいなのかも知れない。
北村先生を最初に見た時、
――大学教授というのは、こういう存在なんだ――
と、雰囲気から勝手に想像したのは、隣に和代がいるイメージだった。
だが、話をしている時の北村先生からは、和代のイメージは湧いてこない。先生と二人きりで話をしている信義との間に、和代が入り込む余地はないように思える。
――和代は、今幸せな結婚生活を歩んでいるのかな?
あれ以来、恋愛は何度か経験したが、いまだに独身の信義は、結婚を考えると、どうしても和代を思い浮かべてしまう。最終的に自然消滅になってしまったことを後悔している自分がいることに気付くのだが、自然消滅したのは、自分に原因があるわけではないような気もしてきたのだ。
直子とも自然消滅だったことで、
――気持ちに深く残った女性とは、必ず最後は自然消滅してしまう――
と思っていたが、逆に考えれば、
――自然消滅した相手だからこそ、気持ちに深く残っているのではないか――
と感じる。
それは、心に深く残っているのではなく、気持ちに深く残っていることだ。
心に残っているだけでは、表に出そうと思わないと、表に出てくる感情ではない。気持ちとして残っているのであれば、残っているものを表に出そうとしなくても、気持ちが無意識に表に出てくれる。意識するかしないかの違いは大きい。和代のことを思い出そうとして直子のことも一緒に思い出してしまうのは、そんな無意識な感情が影響しているのではなかろうか。
――和代が結婚した大学教授は、北村先生のような人であればいいな――