後ろに立つ者
では、なぜ偶然がそんなに自分を納得させられないものなのか。それは高校受験の時に感じたことが大きかった。
中学時代、それほど成績もよくなかった信義は、受験に際して、先生と話をした時、
「無難なB高校に行くか、少し関門だけど、一つランクを上げてA高校に行くか、考えどころだな」
と言われていたが、
体裁をすぐに考えてしまう親の手前もあって、A高校にした。
「これくらいの高校を出ておかないと、将来的にも難しいだろう」
というのが父親の意見だったが、母親はそんなことは関係なく、完全にまわりへの体裁が問題だった。
高校受験は信義の意見というより、親の意見の方が大きく作用した。その頃の信義は親に逆らえないタイプの少年だった。
――中学、高校時代は暗かった――
と自分で感じている理由の大きなところは、そこにあったのだ。
信義は結果的にA高校に入学できた。信義本人は、
――親も喜んでくれるだろう――
と思っていたが、反応はアッサリしたものだった。
「合格して当たり前だ」
というくらいにしか考えていなかったことが悔しかった。確かに親からすれば、高校受験くらい合格して当然で、入学できないなど想定外だったに違いない。
だが、そこには子供に対しての気持ちは何ら表に出てくることはなく、精神的な面でどれほど子供を追いつめたのか分かっていない。そのことだけでも信義の気持ちを内に籠めるだけの十分な影響力があったのだが、信義にはそれ以上に切実な問題だった。
信義が合格した学校は、ランクを一つ上げた学校だった。レベルからすれば、信義クラスでは荷が思いと思われるところだった。現に志望校を選択する時に担任の先生から、
「よく考えて決めるんだぞ。問題は入学してからだからな」
と言われていた。
その時は、まずは合格しなければどうしようもないことで、入学してからのことなど考えたこともなかった。その時は親も全面的に応援してくれていることで、安心感が生まれてきた。入学したら、さぞや喜んでくれるだろうと思ったのもそのせいだった。
――こんなことなら、親のためになどと、思わなければよかった――
そう思っていたからこそ、親も応援してくれているのだろうと思っていたのに、合格してしまえば、まるで何もなかったかのような態度だった。
大人になって考えると、それも分からなくはないが、子供としては、完全におだてられて梯子を使って昇ったところで、いざ降りようとすると、梯子を撤去されて、置き去りにされてしまった気分である。おだてに乗りやすい自分の性格を巧みに利用されたことで、自己嫌悪の状態に陥ったことも否定できない事実だった。
そんな風に感じることで、切実な問題に直面した時に、自分がどうして悩んでいるか分かったのも、先生の言葉と、入学してから親の態度を見ていることから来ていることだった。
「入学してからが問題なんだ」
そう、まさしくそうだった。
入学だけを目指している時は、考えられるわけもない。もっとも考えても仕方がないことだし、考えることで、受験への心構えに支障をきたすことになるからだ。
考えてみれば当たり前のこと、ランクを一つ上げて、今のママの成績では、ギリギリと言われたところである。
合格してしまえば、それで終わりなら、何も問題はない。ただ、入学試験というのは、入学するためのものだけであって、入学することで、初めて底からすべてが生まれるからだ。
合格してしまうと、信義が最初に感じたのは、
――こんなはずではない――
いくら中学時代に勉強が好きではなかったとはいえ、勉強についていけなかったということはなかった。それなのに、高校に入ってから、すぐについていけないほどになっていたのだ。
――カリキュラムが速すぎる――
他の人には普通なのに、信義には厳しかった。中学時代であれば、分からない生徒がいれば、分かるまで全体が待っているというところがあった。信義自身、そのことで、かなり救われたという意識がない。
もし、その意識があれば少しは違っていただろう。要するに中学時代の甘い授業に比べれば、高校に入学してしまえば、厳しい現実としてのしかかってきたのだ。
――高校は義務教育ではないんだな――
ただ、教育方針もそうなのだが、何と言っても中学時代との一番の違いは、全体のレベルである。
入学ギリギリの閾の高いところを敢えて受験したのだ。受験に対してはもちろんのこと、入学すると、まわりは皆自分よりも優秀な生徒ばかりだということに気付いていなかった。
「入学してからが問題なんだ」
と言った中学時代の先生の言葉、今さらながらに身に沁みて分かったというものだ。
普通であれば、そのまま落ち込んでいくのだが、その時に考えた発想が信義を救った。
――入学したのは、偶然ではないんだ――
という考えだった。
今までであれば、
――ギリギリの高校に入学できたことが奇跡だったんだ――
と思うことで、偶然入学できただけだと、入学したことに対してだけは、納得させようとするだろう。そうでなければ、入学できたことが、その後の自分の悲劇を生んだのだと思うと、
――どんなに努力しても報われない――
と思うことになるだろうからである。
努力しても報われないだけではなく、努力したことが却って自分の足を引っ張ることになるのだ。そんなことが許されていいものだろうかと思ってしまう。
その思いはきっと堂々巡りを繰り返し、そのまま鬱状態を引き込むことになるかも知れない。
切実な問題を抱えながら鬱状態に突入してしまえば、その後は底なしの泥沼である。奈落の底に落ちてしまえば、二度と這い上がることができないという事実を、早くも高校時代に悟ってしまい、もしこの時何とか立ち直ることができたとしても、永遠に偶然を逃げにしてしまう。
そう思わないにはどうすればいいか、それは、
――入学できたことを、偶然だと決して思わないこと――
それだけであった。
それだけのことなのだが、それが難しい。偶然だということを、それまでどれほど自然に受け入れていたかということを考えると、漠然と感じた偶然にまで、すべて納得させなければならなくなる。これは信義ならではの大きな問題だった。
この時の苦境をどのようにして切り抜けたかということを信義は分かっていない。だがこの時から、偶然ということに対して、少しでも考えるようになったのは事実だった。すべてを偶然と考えないなどということは、やってみて不可能だということは分かった。無理なことを強引に納得させることは、さすがに無理だからである。
それから信義は、少し考え方が変わっていった。
偶然というものをすべて必然だと思うのは無理だということが分かってくると、偶然の中に、
――必然に近いものと、本当に偶然のもの――
という考えが二種類あることを考えるようになった。
そして、必然に近いものと、本物の偶然の違いについて、
――何か見えない意志が働いている――
という考えが左右しているのだと思うようになった。
ただ、何か見えないと言いながらも、そこにある意志は、自分の中にあるものから醸し出されていると思っている。