後ろに立つ者
信義にとって、思い出として記憶しているものと一緒に音楽があるのは、何も恋愛だけに限ったことではない。小学生時代の直子との思い出も、その頃に流行っていた曲とともに意識している。
直子以外のことでもいろいろなことを思い出す時に音楽が付きものだということは、これも最近感じたことだった。音楽にはリズムがある。その時々の感情で、音楽のリズムも変わってくる。ちょうど記憶する心境と合っているリズムがその時自分の気持ちを揺さぶったものであれば、一緒に記憶されるに十分なものだったに違いない。
――記憶は、決して時系列に伴って格納されているものではない――
と思っているが、時系列に伴わないでも格納されているのは、その時に流行った音楽が一緒に格納されていることで、忘れることがないからではないだろうか。
万が一、忘れたとしても、思い出すカギはちゃんとある。それが一緒に格納された音楽であり、思い出した時に、一緒に表に出てくるのだが、一緒に思い出したという意識はない。
思い出したことに対して、自分の中でいつのことだったのかということを考えて、初めてその時に音楽が浮かんでくるものだと思っていたが、
――どうやら、そうではないのだ――
ということに気が付いたのが、最近になってのことだった。
それを思い出させてくれたのが直子のことを思い出すようになってからのことだった。
――年を取れば昔のことをよく思い出すようになる――
と言われるが、そこまで年齢を重ねた思いはなかった。しかし、よく考えてみると、逆に、
――思い出すようになったから、年齢を重ねたという意識が生まれてくるものなのかも知れない――
とも言えるのではないだろうか。
音楽が一緒に記憶の中に格納されたのには、感情が大きな影響を持っていることだろう。忘れられない思い出には、それなりに理由があるはずだ。
――楽しい思い出として忘れたくない――
というものもあれば、
――忘れてしまいたいのだが、忘れることができないこともある――
というものもある。
前者は誰もが意識して記憶しているものだが、後者は、意識したくないという思いがあるだけに、
――そんな意識があったとしても不思議はない――
と思ったとしても、
――それは誰もが持っているものなのだ――
という思いを強く持っていた。
それを教えてくれたのが、康子だった。
「私は、この頃の音楽を聴くと、忘れてしまいたい記憶でも忘れることができないものがあるんだって、思ってしまうことがあるの。今までに誰にも話したことがないんだけど、不思議ですよね。信義さん相手だと、素直に話ができるの」
「それは、僕がかなりの年上だからかな? それとも、ちょうどこの音楽が流行った頃に、康子ちゃんくらいの年齢だったからだと思うからなのかな?」
「そのどちらもあるのかも知れないけど、それ以外にも何かあるような気がしているんです。信義さんと話をしていると、今まで誰にも話ができなかったことを話せる気がする。それは年には関係のないことだって思っているんですよ」
と言って、グラスを口に持っていき、喉を潤していた。穏やかな気持ちで話していたつもりでも、かなり緊張しているのかも知れないと、信義は感じた。
康子の顔を見ていると、どこか上気しているのが感じられ、その時の康子の表情に、懐かしさを覚えた信義だった。
――俺が若い頃だったら、一目惚れしちゃうだろうな――
という思いだった。
そう思うと、自分の中に忘れられない女性がいたことを思い出す。もちろん、和代のことだが、やはり和代に対しては、思い出したくないと思いながら忘れられない存在の女性なのだ。
和代のイメージは、和代との思い出を懐かしいと感じることはあっても、顔まで思い出せるほどではなかった。
――俺はいつまで、和代の顔を、一生忘れないだろうと感じていたのだろう?
自然消滅してからも、和代のことが、今まで一番好きだった相手だという意識を忘れたことはない。その意識があるからこそ、信義にとって和代は、
――思い出したくない相手なのに、忘れられない相手だ――
という意識があったのだ。
思い出したくないという意識があるから、忘れられない相手だと思っていても、いずれは忘れてしまうことになるなどということを考えたこともない。むしろ、思い出したくないという意識があるからこそ、忘れられないのではないかと思っていたほどだ。
なぜなら、それだけどちらに転んでも意識が強いということである。
思い出したくないという負の思いであっても、その感覚は強いものだ。忘れられないという意識を擽るには十分で、思い出があるからこそ、忘れられないという思いよりも強いのかも知れない。
そんな和代を彷彿させる康子が現れたことで、今度は、康子の雰囲気から和代を思い出すことになった。
すると、今まで忘れられないと思っていた和代のイメージが少し変わってきていることが気になっていた。どんな風に変わってきたのか、信義にはハッキリと分からない。それは三十年という時代の流れがそうさせているのかも知れない。
時間の流れだけではなく、時間には発展を伴ったものが付加されている。それが時代として時間を刻んでいて、順を追わずに一気に飛び越えてしまったら、そこはまったく想像もしなかった世界であることも考えられる。
和代と信義には、時代が分かっているが、康子には時代は分からない。二人が歩んだ時間を、まったく違った時代で歩んできたのだから、仕方がない。これからの時代も当然二人が歩んできた時代とも違ったものになるはずだ。
三十年前の音楽を懐かしいと言って聞いていた康子を見ていると、まるで康子の後ろに、じっと黙って佇んでいる三十年前の和代がいるような気がして仕方がない。
――和代に子供がいたら、こんな感じなのかも知れないな――
と、漠然と感じた。しかし、その思いが次第に強くなってくるのを感じると、それを確信に変えようと、確証に繋がるものを探している自分に気が付いた。
――そんな偶然あるわけないよな――
と思ってみたが、長年生きていれば、
――偶然に出会う確率は、思ったより高いのではないか――
と、感じるようになった。
偶然を最初から信じない風潮に流されていると、見逃してしまう確率は高い。特に、自分の納得の行くこと以外は信じない性格の信義には切実な話である。逆に言えば、納得の行くことであれば、どんなに偶然であっても、信じることができるのだ。
確かに理屈から考えれば、偶然はあまりあり得ることではない。それは、納得の行くことをすべて必然と考えているからであって、必然だけが、納得の行くことだと考えてしまうからだ。
確かに、納得の行くことは必然なのかも知れないが、偶然がすべて納得の行くことではないという考えは少し違うような気がする。子供の頃の信義は、少なくとも偶然を信じた時もあった。偶然うまく行ったことを、自分で納得行かせるために、強引に必然だと思いこませていたからだ。それを認めたくない自分がいて、最初から必然だったと思わせるためには、
――納得の行くことはすべて必然なことだ――
と考えさせていた。