後ろに立つ者
――そういえば、老人も言っていたではないか。隠れ家という意識を忘れてしまっては、会えないという話だったはずだ――
という話を思い返していた。
隠れ家というイメージと老人の雰囲気が決して結びつくわけではない。気分的に納得できないというのは、イメージと雰囲気が合わないことへの納得ではないだろうか。
――ここで、誰かに出会うような気がするのは気のせいだろうか?
と確かその時に感じたような気がした。そのことを思い出すこともなく数か月が過ぎて、康子と出会うことになるのだが、実際に出会った時には、以前に出会いを感じていたなどということを、すっかり忘れてしまっていた。
信義は、肝心なことを覚えきれない自分に苛立ちを覚えていた。何となく感覚が残っていても、覚えていないので、何を感じ、何を考えたのか、すっかり忘れてしまっている。
時間帯がまったく違っているのも、忘れる要因だったのかも知れない。
康子と出会ったのは、深夜だった。まだ賑やかさの残る中で、一人佇んでいた康子は、浮いた存在に見えた。浮いているだけに目立って見えたことが、信義に興味を持たせたのだ。
しかし、一人で来たのは夕方の、まだ夕日の差し込んでくる時間帯だった。そのせいもあってか、一人佇むには、夕方の西日を感じる時間が一番ふさわしいと感じるようになった。深夜一人でいるのは侘しいものだが、寂しさがこみ上げてくるわけではない。寂しさがこみ上げてくる時間は、夕方だったのだ。
陽の光が眩しく、潮騒が耳鳴りを運んでくることで、視界もしっかりとしていない。まるでモヤが掛かったかのように、埃が舞って見える光景は、体調を崩させるに十分で、身体に熱を籠らせてしまい、眩暈を起こさせるかのようだった。体調の悪さが心細さを呼び、寂しさを感じさせられら。
それに比べて深夜の時間帯は、疲れてはいるが、決して眩暈を起こさせたりはしない。原色がハッキリと確認でき、却って目が冴えてくるようだ。目が冴えてくると、寂しさはなく、感じるのは、寂しさというよりも孤独だった。
寂しさと孤独とは、同じもののように感じるが、信義は違った感覚を持っていた。
寂しさは心細さから生まれるもので、自分ではどうしようもない思いに駆られる。しかし、孤独は寂しさのように心細さから生まれるものではない、心細さがないとは言いきれないが、生まれてくる感覚は心細さからではない。
不安があるわけでもなく、孤独を楽しんでいる人もいる。
――孤独とは、一人でいることであり、一人でいたいと思っている人が、寂しさを感じるわけもない――
信義は、孤独を感じることもあれば、寂しさを感じることもある。孤独は嫌いではないが、実は寂しさも決して嫌いだというわけでもない。
ただ、孤独を感じている時は、まわりの人を感じる気にはならないが、寂しさを感じている時にはまわりの人が話しかけてくれたり、心配してくれているのを感じると、そこに暖かさが生まれてくるのが分かるのだ。
元々孤独には暖かさは感じない。一人でいることに辛さを感じると、それは寂しさに繋がってくる。それは人に触れて暖かさを感じたいという思いが働くからだ。しかし孤独を求めている時は、まわりの暖かさが億劫に感じられる。何かに集中している時など、そういう感覚になるのかも知れない。
ただ、鬱状態に陥る時があるのだが、それは孤独を感じた後に、苦痛を感じるのだが、その時、寂しさに繋がらない時に陥るのではないかと思うことがある。
鬱状態は、何をやっても面白くなく、やることすべてが自分を苦しめることになるという錯覚が憑りついてしまった時に感じるものだ。そんな時に人の暖かさを求める寂しさに繋がらないのは当たり前のこと、
寂しさは心細さから生まれるものだと思っているので、人と触れ合うことを嫌う。鬱状態では身体が必要以上に敏感になっている病気の時のように、精神が必要以上に敏感になっているのだ。そんな時、暖かさを求める寂しさが身体に漲っているなど考えられない。
ちょうど初めてバーに顔を出して老人と出会った時は、鬱状態の終わり頃だったような気がする。鬱状態にも慣れていたし、鬱状態から抜ける感覚も分かっていた。
――そろそろ抜ける頃だ――
と思っていたところで、初めてのバーに立ち寄り、不思議な老人を見かけた。
――これも何かの縁かな?
と感じたのも事実だった。
それから数か月か経って、ファミレスで康子に声を掛けたのが、鬱状態から抜け出して、躁状態に近い頃だった。普段であれば、鬱から抜けると、一気に躁状態に精神が移行するのだが、その時は、平常心がしばらく続いた。鬱状態をほとんど忘れかけていた時、躁状態に移る気配を自分なりに感じたのだ。
信義が老人にもう一度会いたいと思ったのは、自分に納得させるためでもあったが、鬱状態を抜けてからの自分が、今回は今までと少し違っている感覚を覚えたことで、寂しさを感じずにいられる方法が見つかりはしないかと考えたのだ。老人に孤独と寂しさの話を聞くことで、老人は、きっと孤独から寂しさに繋がらない時、鬱状態に陥るのだと話してくれ、それが信義の納得に繋がるのだと思っているが、あまりにも都合のいい考え方であろうか?
その日、店に来ると、老人はすでに来ていた。
「こんばんは。昨日以来だね」
と言って気さくに声を掛けてくれたが、老人にとって、信義がその日やってくるのが最初から分かっていたかのようだった。
「この人は気に入った人とではないと、なかなかお話はしませんからね」
と、カウンター越しにマスターが声を掛けてくれる。
「あなたは、どうも孤独を背負っているような気がするんですが、同じ孤独でも、納得ずくの孤独を感じている人もいるけど、あなたの場合は、孤独を苦痛にまで思うことはなさそうですね」
というが、本当はそんなことはないと思っていた。
ある日突然孤独に苛まれることもあるからだ。あの時は苦痛だと思っている。そんな信義の気持ちを察してか、
「孤独に苦痛を感じることがあっても、一日や二日で済むのであれば、それは納得ずくな中でのことであって、軽い鬱状態になっているんでしょうね。それは純粋な孤独とは別の心細さが生み出しているものなのかも知れませんね」
老人の話は、当たり前のことを言っているように思えてならなかった。だが、老人でなければできない発想に思える。一人で考えていては、生まれてこない発想に、
――口にすることで、自分も納得している部分もあるような気がするな――
人を納得させるには、まず自分が納得するしかない。自分が納得しようと思い、一人で考えていると、どうしても考えがまとまらない。それは考えが堂々巡りを繰り返してしまうからだ。
最初はそのことが分からない。
堂々巡りを繰り返していることを理解できないということは、自分の考えていることには限界がないと思っている証拠である。一度限界を感じてしまうと、なかなかそこから抜け出すことができないが、抜け出そうとする努力はする。しかし、限界が一人で考えているから起こるのだと分かると、話をする相手を探そうと無意識にでも思うのかも知れない。