後ろに立つ者
そんな時に声を掛けてきたのが信義だった。
――きっと私に同い年の男の子が声を掛けてこなかったのは、近づきにくいオーラがあったからなのかも知れないわ――
信義は、うだつの上がらない中年男性に最初は見えた。だが、目の前にいるだけで、次第に感覚が変わってきた。
――おじさんだと思っていたのに、もっと年齢が近い人に感じられるわ。しかも、慕いたいという気持ちが溢れてきた。そう、お兄ちゃんのような雰囲気だわ――
と、康子は感じた。
信義は、康子に対して最初は娘のような感覚だったが、それだけではない何かを感じていた。それは、自分が感じているものではなく、康子が感じている「お兄ちゃん」という思いが、康子を見ていると、伝わってきたのかも知れない。
そんな二人を察して、いきなり「父と娘」のイメージで話し始めたのはマスターだった。マスターには、康子の気持ちが分かったのかも知れない。
バーの中にいると、少し暑さを感じてきた。
寒い表を歩いてきた影響かも知れないが、それよりもどこか湿気があることを感じていたのは、信義も康子も一緒だった。
康子が息切れしているのを悟ったマスターは、
「少し暑いですか?」
と、康子に声を掛けた。
「そうですね。信義さんはいかがですか?」
「ええ、僕も少し暑さを感じますね」
「じゃあ、少し温度を落としましょう」
これだけの会話だったが、結構時間が掛かったと思っている信義と、あっという間に過ぎた時間だと思った康子、お互いに時間の感覚がずれていることを、お互いに知らないでいた。
「私、以前にもこのお店に来たことありませんでしたか?」
康子は、マスターに聞いた。
「いや、私には見覚えないんだけどね」
と、答えたが、さらに康子の顔を見ていた。
マスターがウソを言っているとは思えないが、二人の間に、不思議な雰囲気が漲っていたのを、ただ見ているしかできなかった信義だった。
「でも、同じようなことをいきなり言われるお客さんも、少なくはないんですよ。きっと似たようなお店に思い入れがあって、初めてきたような気がしなかったのかも知れないですね」
と、マスターは話したが、確かにバーの造りなど、それほど変わったところはない、バーというところは雰囲気づくりで店が持つように思っていた信義だったが、それが造りと雰囲気の両方から形成されているのかも知れないと、二人の会話から感じたのだ。
信義は、デジャブは感じなかったが、違う意味で懐かしさを感じた。
この店のイメージが、まったく違う場所で感じた懐かしさに似ていたからだ。ちょうど癒しを求めていた時期だったこともあって、癒しを感じたことで、そんな気分になったのかも知れないと思っていた。それが妄想の一種であったということに気付くのは、もう少し後になってからのことだった。
妄想と想像は違う。妄想は自分の意識の中にあるものを膨らませていくもので、想像は意識として作り上げるものをいうのではないかと思っていた。そういう意味では、想像よりも妄想の方がしやすい。だが、意識としては、
――想像はしてもいいが、妄想はあまり膨らませるものではない――
という思いがあるのも事実で、妄想は、タブーの一種のように感じていた。きっとそれは、妄想が行動に出やすいからではないだろうか。
信義は、この店に初めて来た日のことを思い出していた。
あの日は確か、仕事で嫌なことがあり、まっすぐに家に帰る気がしなかった時であった。まだ、最終電車を気にする時間ではなかったので、午後九時頃だったはずだ。街には人が溢れていて、ちょうど一次会が終わって、これから二次会に繰り出そうとする連中が、飲み屋街にいっぱいいた時間だった。
信義は、そんな連中を横目に、わざと早く歩いて、楽しそうにしている連中を半分蔑んだ気持ちになりながら通り過ぎていた。
――どいつここいつも、浮かれやがって――
心の中で叫んでいた。
余計に気持ちが苛立ってきた。それは、楽しそうな連中を無視することもできないほど精神的に余裕のない自分に対しての憤りだった。嫌な気分にはなっても、決して羨ましいなどと思わなかった自分が、余裕のない精神状態を曝け出すかのように苛立っているのを客観的に見ると、これほどみすぼらしく感じることはなかったからだ。
――こんな日は一人で呑めるようなところがいいな――
と思っていると、気が付けば、寂しいところを歩いていた。
――こんなところに意外と隠れ家のようなところがあるかも知れないな――
と、その時は、冷静に考えられた。この店を見つけることができる予感めいたものがあったのかも知れない。
大通りから一つ入った一角を歩こうなど、今までに考えたこともなかった。ある意味隠れ家のような店を見つけたいと思ったことで、普段と違った精神状態に落ち着いていたに違いない。
薄暗い中に、まるでホタルの光のように、煌めいている明かりが見えた。決して明るくはないが、煌めきに、まるで自分を呼んでいるのではないかと思わせる趣を感じたのだ。角を曲がると見えてきた雰囲気に、吸い込まれるように入っていったのだが、あの時は今日のように扉が重たかったわけではない。スッと入れたのだった。
店に初めて入った時は、長居をするつもりもなく、一時間でもいればいいという程度の感覚で中に入った。
店内には誰もおらず、一人でビールを呑んでいた。おつまみとして、豚バラ焼きと、砂刷りの土瓶蒸しを注文したが、なかなかおいしかった。食べているうちに暖かな気分になれたこともありがたく、店内を見渡すと、入ってきた時に感じたよりも、広く感じられたから不思議だった。
マスターは相変わらず無言で、手だけを忙しく動かしている。手つきに無駄がなく、思わず手元に目を引き付けられているのに気付いた。
そのうちに一人の客が表れた。その人は老人で、最初は、
――バーが似合いそうな人ではないな――
と思ったほどだった。
その人は意外にもワインとピザを注文していた。若かった頃から、バーの常連だったのかも知れない。
信義はカウンターの一番奥に鎮座していたが、その老人はそこから三席離れたカウンターの中央に座っている。
――この人の指定席なのかも知れないな――
常連であることは、マスターの態度を見ていると最初から分かっていた。注文する時にも、
「今日は……」
と言いながら老人が口にしたのを聞いて、確信に変わったのだ。
しばらく客は二人だけの時間が続いたが、老人が入ってきてから、十五分ほど経ってから、女性二人組が入ってきて、テーブル席に腰を掛けた。時間を見ると、十時ジャストだったので、予約をしていた客だったのかも知れない。
彼女たちは、老人のことは気になっていないようだったが、信義のことは気にしていた。
――やっぱり老人は、常連だったのかな?
と思った。
女の子二人組が入ってくると、老人は、席を移動して、信義の隣にやってきた。信義は、老人が隣になぜやってきたのか気にはなったが、ビックリしたわけではなかった。
老人はおもむろに口を開くと、
「お客さんは、初めて来られたのかね?」
「ええ」
「この店のことは以前から気にされていたのかい?」