後ろに立つ者
店の近くまでくると、康子も店が近づいてきたことを察したのだろうか。それまで黙って後ろからついてきていたのに、次第に前に来るようになり、信義と並んで歩く要因なっていた。
「すぐそこですよ」
と言って、康子の方を振り返ってみると、康子がまわりをキョロキョロと見ているのを感じた。
「このあたりに来るのは初めてかい?」
と聞いてみると、
「初めてのはずなんですけど、この光景は初めてではないような気がするんですよ。なんか不思議ですよね」
と言って微笑んでいた。
康子がデジャブという言葉を知っているかどうか分からないが、不思議だと言いながら、結構楽しそうだ。初めてくるはずの場所なのに、初めてではないような感覚になったことが今までにもあったのかも知れない。
信義は、再度康子の前に立ちはだかり、少し歩を早めて、バーの前までやってきた。
――おや?
扉を開けてみたが、普段よりも、扉が硬く、扉を引いた時に。元に戻ろうとする反発力を感じた。
――重たい――
と思いながら、一気に扉を開けると、薄暗い中に、ほんのりとした暖かさが感じられるスペースが、目に飛び込んできた。
それは懐かしさという言葉が一番適切かも知れない。
――そういえば、しばらく来ていなかったな――
仕事が忙しかったこともあって、一か月ぶりくらいだった。だが、実際には、そんなに離れていたような気がしていなかっただけに、店内を覗くと、やはり久しぶりだという感覚がよみがえり、懐かしさがこみ上げてきたのだろう。
薄暗い中で、BGMも最低限の大きさに保たれていた。たまに客の中で、気持ちよくなって奥で寝てしまう人もいるので、睡眠の邪魔にならない程度の音にしていた。
もっとも、これくらいの音量の方が一番気持ちがいいのか、眠りに落ちるまでが、あっという間だったのだ。
ここで朝までいたことも何度かあった。ビジネスホテルがいっぱいの時には、ここに来たものだ。やっぱりベッドの上で寝るのが一番いいに決まっているので、最優先はビジネスホテルだが、ここで朝までいても、違和感はなかった。
――でも、そんなにしょっちゅうできることではない――
というのも事実で、身体が重たくなったこともあり、体調を崩さないようにしないといけないのは当然のことだった。
店の中に入ると、後ろからついてきた康子も、いつの間にか、信義の横に来ていて、店内を見渡している。
「素敵なお店ですね」
少し擦れたような声になっている康子はそう言って、信義が席を決めるのを待っているようだった。
信義の席はいつも決まっている。カウンターの一番奥の席だった。
店内は、カウンターが六人ほど座れる席に、テーブル席が二つほどある。
テーブル席にはスポットライトもついていて、店内の照明が暗くなったら、スポットライトで自分のテーブルだけ調整できるようになっている。それもありがたいことだった。
今まで誰かと一緒に来たことはなかった。ここ数年、女性と付き合ったなどという思いはなく、もし付き合う人がいれば、きっとこの店にも連れてくるだろう。
ただ、付き合い始めて最初の頃に連れてくるようなことはしない。お互いに気心も知れてきて、性格も分かって来てからになるだろう。
――俺はこの店をそれほど大切に思っているのかな?
と考えていたが、それ以上に、この店を自分の隠れ家にしようという思いもあるのだと感じていた。
そう思うと、
――やっぱり、誰かと付き合うとすれば、ここには連れてこないかも知れないな――
と感じた。
――じゃあ、この娘を連れてきたのはどういう意志が働いたからだろう?
衝動的な行動であることは分かっていたが、それは半分以下の感覚にしか思えない。自分の中に何か考えがあるのは間違いのないことで、
――やはり、娘のような感覚でいるからかな?
今まで、娘がほしいと思ったことはなかった。
いたらよかったと思ったこともあったが、それはあくまでも和代と結婚して、子供ができていればの話だった。それ以降何人かと付き合ったが、和代以上の女性はいなかった。そして、そのすべてが、自然消滅である。
娘がいてもいい年齢で、道を歩いていて、家族連れを見かけると、胸がドキドキしてしまうことがあった。それは家族に対して憧れと同じくらいに、娘に対しての愛着があったからに違いない。
恋愛に関しては、今はしたいとは思っていない。家庭への憧れはその反動ではないかと感じていた。
いろいろなことを考えながら、気が付けば、指定席に座ってた。康子も一寸遅れて隣に座ったが、もう店内を見渡すことはなかった。
「いらっしゃい」
マスターの声で我に返った信義は、
「こんばんは」
と声を掛けると、やはり一寸遅れて康子も、
「こんばんは」
と声を掛けた。
マスターは二人を見ながらニコニコしながら、
「よかったですね。娘ができたみたいじゃないですか」
と、まるで今考えていたことを見透かされたように言われたので、一瞬身体が凍り付いたかのようになった信義だった。
「ええ、そうなんですよ」
取ってつけたような返答に、マスターはニッコリ笑って、
「こういう子供のようなところがあるのが、この人のいいところなんでしょうね」
と、康子に言うと、康子も何も言わずにニコニコしながら、頷いていた。
「彼女は、さっき出会ったばかりで、何も知りませんよ」
と、照れ臭さからそう答えたが、この状況でのベストアンサーだったのかどうか、どう考えても違ったようで、またしても、照れ臭さから、顔が真っ赤になってしまった。
この店に入るまでの信義とまるで別人になったかのようだったが、それだけこの場所が信義にとって癒しになるのだろうと、康子は思い、そんな場所を持っている信義が羨ましくもあった。
その日、康子は本当は当てがあったわけではない。
いつもと同じような行動で、
――今日も何ら変化もなく終わるんだわ――
と考えていたが、最近では考えはするが、感情として残ることはなかった。考えはあくまでも惰性で考えているだけであった。
康子は、ここ最近ずっと一人だった。
一人暮らしを始めた時、期待と不安が半々だったが、現実的には不安が表に出ていた。しかし、次第にその環境に慣れてくると、不安な感覚は次第にマヒしてきたのだが、期待もそれ以上になくなっていった。
――何も感じなくなりそうで怖いわ――
と思っている時期もあったが、それも次第に感じなくなった。安定の毎日が始まったのだ。
それなのに、最近急に孤独感が増してきたのを感じた。
――一旦、以前の期待と不安が戻ってきたのかな?
と感じたほどだ。
戻ってきたのなら、感じるようになればいいものを、一旦マヒしてしまったことで、無意識の中で受け入れてしまった感覚になっていた。それなのに、寂しさがこみ上げてくるようになると、それだけが感情として表に出てきたのだ。
――私は誰かを求めている――
ということを感じるようになったのは、最近のことだった。
心の中で、密かに出会いを求めていた。だが、その出会いは普通の男女の出会いではない。何かドキドキするものであり、そこには「禁断」を思わせるものがあるのを予感していた。