後ろに立つ者
かといって、康子が従順な性格なのかどうかまでは、判断できないでいた。今日、初めて会ったはずなのに、康子に見つめられると、
――前から知り合いだったような気がする――
と感じる。
実は、この感覚は和代にも最初に感じたことだった。和代に一目惚れをした原因の大きな部分を、前から知り合いだったような安心感に包まれることで、生まれたのかも知れないと言っても過言ではない。
しかし、康子に対して和代にしたような「一目惚れ」を、自分が若い時であればしたかどうか分からない。
和代には影があった。里山という男と、自分と出会う少し前まで付き合っていて、結婚を考えていたというだけでも、ショッキングだったのに、里山が他のオンナと付き合っていたということ、そしてそんな里山が死んでしまっていたこと、和代にとっては忘れてしまいたいはずの相手の数々のショッキングなことを聞かされて、感覚がマヒしていたのかも知れないと思ったほどだった。和代にあった影が「不安」だったことは分からなくもない。
康子も雰囲気的に、何かを背負っているように思えた。それが不安という影のあった和代と雰囲気が似ていた。和代に感じた一目惚れと同じような感覚を康子に持ったわけではない。康子に感じた思いは、次第に膨らんでくる者になることを予感している自分を感じるのだった。
康子は、きっと不安は大人しい女の子で、集団の中にいる時は、絶えず端の方にいるようなタイプに見えた。ただ、仲のいい友達は二、三人はいるのではないかと思えた。それは、康子の中に、ただ大人しいというだけではなく、しっかりしたものが感じられたからだ。
その理由は、大人しい雰囲気ではあるが、暗さを前面に感じることはないからだ。友達が本当にいない人で、大人しい雰囲気を醸し出しているとすれば、必ず「暗さ」がイメージとして表に出てくるものだと思っていたのだ。
康子は相変わらず文庫本を読んでいる。
「眠くないのかい?」
本を読み始めると、すぐに睡魔に襲われてしまう信義は、じっと本に集中している康子の目が、眠そうには見えてこなかったので、思わず聞いてみた。
「大丈夫です。今日は、なぜか、眠たいって思わないんですよ」
その言葉を聞いて、信義は聞き返した。
「時々そんな日があるんですか?」
「そうですね。何度かに一度は眠くならないことが多いですね。読んでいる本がクライマックスに差し掛かっている時など特にそうなんですが、今日は、一人じゃないからかな?」
信義の胸が一瞬、ドキッとした。康子の表情はさりげなく、出てきた言葉も、信義を見つめながら話しているわけではない。それだけに、信義は康子の言葉が照れ隠しのように思えてきた。
「木を隠すなら森の中」
という言葉があるが、照れ隠しをさりげなさの中に交えるというのは、そんなに稀というわけではない。
――彼女も普通の女の子なんだな――
と、ある意味安心した。
確かに、他の人にはない独特な雰囲気を持っていた。一人深夜のファミレスで、文庫本を読みながらコーヒーを飲んでいるというのも独特な雰囲気を演出しているようで、思わず声を掛けたくなった自分の心境を裏付けているかのようだった。
信義が正面にいるにも関わらず、康子は話をしようとせずに、文庫本に目を落とし、自分の世界に入っている。それを見つめている自分が、どこか娘を見ているような目をしているのではないかと思えてきて、自分に対して、微笑ましく感じられるのだった。
――話しかけたい気持ちもあるが、読書の邪魔をするような無粋な真似ができるわけもない――
と思い、康子は一段落するのを待っていた。
視線は次第に強くなって行ったのかも知れない。
ゆっくり見つめていたが、凝視しているうちに、信義は自分が過去の思い出に浸っているのを感じていた。
それが、和代との思い出であり、和代を思い出したことで、直子を思い出し、
――同じ時に思い出したことのなかった和代と直子を一緒に感じるなんて、やっぱり不思議な時間と空間を今、過ごしているのかも知れないな――
と感じた。
康子を見ているようで、目は過去を見つめていた。視線は間違いなく康子を捉えている。それは分かっているのだが、過去を思い出から我に返った時、見つめていたはずの康子の表情を、一切覚えていないのだ。
――まるで夢から覚める時のようだな――
夢から覚めるにしたがって、見ていた夢を次第に忘れて行くという感覚は、今に始まったことではなく、夢を意識するようになってから感じたことだった。だが、この思いを他の人誰もがしたことがあるとは思えない。夢について何も感じずに過ごしている人もいるかも知れない。
――まさか、夢を見たことないなんて人いないよな――
これも突飛な発想だったが、そこまで考える自分が、どれほど夢に対していろいろな角度から感じているかということの裏返しではないかと思うのだった。
また、信義は夢とまでは行かないまでも、絶えず何かを考えている。それは一人でボーっとしている時はもちろんのこと、それ以外でも、例えば人と話をしている時でも、感じることさえあるくらいだ。
――俺は聖徳太子でもないのに――
と、子供の頃に聞いた、一度に十人以上の人の話を聞いて理解できたという聖徳太子の話を思い出した。
――そんな人間いるはずないよな――
と思いながら、
「人の話を聞いているのか?」
と、人から言われて、ハッとすることがあった。
さすがに、一度にいろいろなことができるはずもない。そう言われてハッとしたということは、
――また、人の話を聞きながら、いろいろ考えていたんだろうな――
と思うのだ。
しかし、考え事の内容は、あながち話の内容とかけ離れたものではない。話を聞いていて、自分の中にある記憶や想像力が何かを考えさせる。
――先を見よう――
という発想があるからなのか、話を聞いて、自分の中での記憶が意識を持つからなのか、意識を持ってしまうと、聞きながらであっても、持った意識に自分が支配される結果になっているのだ。
信義にとって、何かを考えるのは、考えようと意識する時以外にも、無意識のうちに考えていることがあるのは分かっていたが、それが記憶や想像力による意識の芽生えが関わっているなどということを感じ始めたのは、本当に最近だったような気がする。
――四十歳を過ぎると、今まで分かっていなかったことが、いろいろ分かってきたような気がする――
そのほとんどが自分のことである。
人のことやまわりのことは、そんなに簡単に分かるものではない。特に、
――分かりたい――
という強い意識がなければ、まわりや他人のことを理解などできるはずもない。だが、自分のことはどうだろう?
分かりたいという気持ちを持たなくても、視線をうちに向ければいいだけのことである。
だが、自分のことほど分かりにくいことはないというではないか。自分の顔だって、鏡などの媒体がなければ見ることはできない。そして、自分が発している声というのは、人が聞いている声とは二オクターブくらい違って聞こえるという話を聞いたこともあった。分かりにくいというよりも、
――理解できないようにできている――